鎌倉の風に吹かれて

三カ月で消えた、私の恋 鶴岡八幡宮

芥川賞作家の大道珠貴さんが、鎌倉を舞台にした旅情や人間模様を描く、毎回読み切りの超短編小説連載「鎌倉の風に吹かれて」。第3回は、3カ月で消えた「私」の恋について。鶴岡八幡宮を訪れながら、思いを巡らせます。

三カ月で消えた、私の恋 鶴岡八幡宮

 モノカキをしていると、日常の精神の安定がまず大事だ。うっかり恋をしたらおおごとで、作品に集中できなくなる恐れがある。それでも感じの良い男性に恋をしてしまうのが現実。いいじゃないか、恋。私たちはこの先、老後が恐ろしく長いんだから、五十代なんてまだまだ恋をたくさんしたほうがいい。

 そして私の恋は、三カ月で消滅したのだ。
 あれが恋だったのかさえ、わからない。ただの肉欲だった気もする。
 モヤモヤした気分がつづき、それは長雨と重なった。
 しかし光差す朝は必ず来る。

三カ月で消えた、私の恋 鶴岡八幡宮

 からりと晴れ、太陽の素晴らしさに勇気づけられた朝、近くの鶴岡八幡宮まで、軽く走った。ときどき、早歩きで。ときどき、散歩の足取りで。
 「私はこうして生きております。ありがとうございます」
 お賽銭(さいせん)箱に、きれいに洗い清めた五円玉を入れ、手を合わせる。ゴツン、コツン、という木にぶつかる鈍い音。底に、コトン、と納まった音。

 「これが聴きたかったあ」
 素直に、そう思えた。この音は、賽銭箱の声だ。肉声、と言ってもいい。長年、人々の願いをじっと聴いてきたんだもの。
 聴いただけで気持ちが安らぐ、賽銭箱の音。ひととき、静かな気持ちが訪れる。そしてむくむくと、生命力が、身の内で躍っているのがわかる。八幡宮の真上は茫漠(ぼうばく)と空が広がり、災害で一度は倒れた大きな銀杏(いちょう)の木の根株が見える。すこしずつ横のほうから枝も伸び、葉が青々としている。銀杏の生命は密やかに息づいているのだ。

三カ月で消えた、私の恋 鶴岡八幡宮

 ふと、三カ月間、肉欲的に絡み合った、彼の面影が、不謹慎にもかぶってきた。銀杏だけじゃない。手水鉢(ちょうずばち)にも、石畳にも、人力車の車輪にも、私の耳の裏にも。なにを見ても、彼のことが、湧き起こる。

 忘れよう。忘れなきゃ。

 恋と仕事は次元が違うのだ。入れるスイッチが違う。気合の入れかたが違う。おめでたいほどの不器用さだった。泣いたって、めげるだけだから、泣かない。いや、年齢とともに、水分が減ってきた。いやいや、もったいない精神で、涙ももったいないから出さないのかもしれない。

 彼は本当に実存していたんだろうか? 彼は、漫画家の卵だった。佳作ばかりとって、なかなかデビューできない。それでも死ぬまで描きつづける、そんなところを尊敬していた。同い歳で共通点がいっぱいあったのに、私は彼のなにを見ていたのだろう。きっと彼は、私の連絡先を消した。

三カ月で消えた、私の恋 鶴岡八幡宮

 二人で、一度だけ、旅行したっけ。場所は、憧れの大阪。ずっと手をつないでいた。中年カップルが手をつないでも、恥ずかしいことじゃない。幸せなら手をつなぐのだ。素敵だった。彼は左利きで、薬指にはペンダコができていた。一度、結婚したことのある彼は、そこに指輪をはめていたんだなあと、口づけながら思っていた。

 「いつの間にか失(な)くしてしまったんだ。妻に、こわごわ白状したらさ、彼女のほうも実はいつの間にか失くしていたんだって言うじゃない、ケロッと笑って」
 一度は一人の女の人生を背負った男だったのだから、見あげたものだと思う。

 喫茶店で、注文をとりにきたいかにも大阪のおばちゃまが、「ぼくちゃん、なににする?」と、からかってきたときの、彼のあたふたとした苦笑いと、耳が赤くなったこと。突っこみにもボケにも慣れていない、東京育ちなのだ。かわいらしかった。串カツを食べ歩きしていたら、「大阪の人間はふだんはそんなに串カツ食べへん」と、見知らぬおじちゃんが教えてくれたっけ。

三カ月で消えた、私の恋 鶴岡八幡宮

 仲が良いおっさん、おばはんカップルがたくさんいて、羨(うらや)ましかったなあ。あんなふうに一緒に歩いて、帰りたい。一間の安アパートで、漫画家の女房として暮らすのっていいなあ。ああ、大阪っていいなあ、近寄りがたい土地だと怖かったけれど、来てみたら、落ち着く。はしゃぐひとなんていない。わりと寡黙だ。冷めてもおらず、静かに語りかけてくれる。

 また行きたい大阪。今度はひとりで。彼との恋は、もうおしまいなのだけはちゃんとこころのすみでわかっている。
 忘れよう。忘れなきゃ。
(写真・猪俣博史)

PROFILE

  • 大道珠貴

    作家
    1966年福岡市生まれ。2003年、『しょっぱいドライブ』で第128回芥川賞。2005年、『傷口にはウオッカ』で第15回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。小説に『ケセランパサラン』『ショッキングピンク』『煩悩の子』など多数。エッセーに『東京居酒屋探訪』。神奈川県鎌倉市在住。

  • 猪俣博史

    写真家
    1968年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業。卒業後、カナダを拠点に世界各地を放浪。帰国後、レコード会社、広告制作会社勤務などを経て1999年にフリーに。鎌倉、葉山を拠点に、ライフスタイル系のほか、釣り系媒体なども手がけ、場の空気感をとらえた取材撮影を得意とする。&wでは「鎌倉から、ものがたり。」の撮影を担当。神奈川県三浦半島の海辺に暮らす。

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