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武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載です。今回は、武田氏と徳川氏が激しい争奪戦を繰り広げた高天神城です。「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われた、その理由とは?

高天神を制する者は遠江を制す

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

高天神城の長大な横堀と土塁。武田勝頼が改修したとみられる

高天神城(静岡県掛川市)は、東海道上の掛川城(同)と遠州灘に面した港を結ぶ地にある。「高天神を制する者は遠江を制す」といわれたのはそのためだ。その立地の重要性から、武田信玄・勝頼父子と徳川家康の遠江をめぐる戦いにおいて、激しい争奪戦が繰り広げられた。駿河・遠江に加えて三河や尾張の一部にまで領土を拡大していた今川義元が1560(永禄3)年に桶狭間の戦いで敗死すると、今川氏は没落。旧今川領は三河の徳川氏と甲斐の武田氏により分割され、やがて両者は遠江の領有権をめぐって火花を散らすこととなった。

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

高天神城の遠景。標高132メートルの山に築かれている

武田家滅亡への本格的カウントダウン

戦国時代の戦いが好きな人なら、「高天神城の戦い」と聞くだけで心揺さぶられるものがあるだろう。今川氏の高天神城を手に入れた徳川家康が、武田勝頼に攻略されながらも最後は奪還する戦いだ。1571(元亀2)年に信玄が大軍でも攻略できなかったとも伝わる難攻不落の城を、勝頼が1574(天正2)年に攻略(第1次高天神城の戦い)。これを1581(天正9)年に、家康が奪い返した(第2次高天神城の戦い)。家康の起死回生の高天神城奪還劇は武田氏を遠江から駆逐する決定打になると同時に、武田家分裂を決定づける一撃となった。武田氏滅亡の本格的なカウントダウンは、第2次高天神城の戦いから始まる。

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

家康の家臣・大河内政局が7年間幽閉されていた、本丸北下の石窟

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小笠山へ続く唯一の脱出口といわれ、難所であることから「犬戻り猿戻り」と呼ばれる道。1581年の落城時、武田勝頼に知らせるため尾根続きに馬を走らせたとされる

東峰と西峰がまったく別の顔

高天神城は、二つの顔を持つ「一城別郭」の城だ。小笠山山稜から東に張り出した標高132メートルの丘陵に築かれた城で、東峰と西峰に分かれ、その二つが井戸曲輪(くるわ)でつながれたアルファベットの「H」のような形をしている。

東峰と西峰にまったく別の城のような様相の違いがあることが、この城の大きな特徴だ。簡潔にいえば、東峰よりも西峰のほうが城の輪郭が鋭く、ダイナミックで技巧的なつくりになっている。東峰を居住エリアとするならば、西峰は戦闘エリアというイメージだ。この違いを比較しながら歩くのが、高天神城を楽しむポイントだ。

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

本丸周囲に残る、幅1メートルほどの城内道。岩盤が削られている

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

東峰にある本丸と虎口

とくに、西峰の西の丸から北尾根筋に続く堂の尾曲輪や井楼曲輪は、東峰と同じ城とは思えないほどにがらりと雰囲気が変わる。土木量が増し、高低差のエッジがはっきりする。二の丸から振り返ると、山のように高く崖のように鋭く切り立った、西の丸の切岸が立ちはだかる。この上から強襲されたら、と想像するだけで、背筋が凍る。

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

二の丸と堂の尾曲輪を分断する堀切。木橋がかけられていた

「西からの敵」を徹底的に警戒

ここから連なる二の丸、袖曲輪、馬出曲輪、堂の尾曲輪、井楼曲輪が高天神城の最大の見どころだ。堂の尾曲輪から井楼曲輪の西側に延々と続く幅・深さ約5メートルの長大な横堀と、それに伴う高さ約5メートルの土塁、高さ約15メートルの切岸、そして曲輪を遮断する巨大な堀切。戦闘が意識されたこの空間に圧倒されない人はいないはずだ。「土塁+横堀+切岸」の三重構造で、敵を完全にシャットアウト。さらに曲輪の上を歩いてみると、西面だけに土塁が続き、徹底的に西側からの敵に備えているのがわかる。

これは、西側の赤根ケ谷方面の傾斜が緩やかであるために、1574年に城を奪った勝頼が改造したものと考えられる。周囲の地形を見比べてみると、城全体が基本的に急峻(きゅうしゅん)な崖に守られているのに対し、西側だけは緩い斜面になっている。高天神城を攻略した勝頼は、この緩い斜面が最大の弱点と考えたのだろう。家康にとって奪還の糸口になる可能性が高いと判断し、警戒したと思われる。この場所に立つと、両氏が火花を散らした攻防戦の緊張感が伝わってくる。

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

堂の尾曲輪から井楼曲輪の西側に続く長大な横堀と土塁

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

二の丸と堂の尾曲輪の間の堀切。岩盤がかなり削り込まれている

攻略のため六砦を構築した家康

前述のように、高天神城は家康が取り返すことになる。高天神城の奪還を目指す家康は、高天神城六砦(小笠山砦・獅子ケ鼻砦・中村砦・能ケ坂砦・火ケ峰砦・三井山砦)を構築して高天神城を包囲した。なかでも最大規模の小笠山砦は、今川氏真がこもった掛川城との連携を断つべく築かれ、1578~79(天正6~7)年に高天神城攻略のために再び徳川勢が布陣した陣城だ。山頂からは南方に高天神城を見下ろせ、家康の戦略が読み解ける。侵食された小笠山礫層(れきそう)により形成された断崖も圧巻で、堀切も横堀も見ごたえがある。

武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城

徳川家康が高天神城攻略の際に陣を置いたといわれる、小笠山砦の巨大な横堀

(この項おわり。次回は9月2日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■高天神城
http://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kankou/spot/rekishibunka/takatenjinjyoato.html(掛川市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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