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箱に入れ袋に入れ櫃に入れ……何を厳重に保管? 塩飽勤番所 

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載です。今回は瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島。戦国時代に水軍基地として栄え、人名(にんみょう)という独特の自治で運営された地域でもあります。そんな島で、恐ろしく厳重に管理されたものとは?

独自の自治権「人名」制度

箱に入れ袋に入れ櫃に入れ……何を厳重に保管? 塩飽勤番所 

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている、笠島の街並み

瀬戸内海の中央、備讃瀬戸に位置する、塩飽諸島。本島(ほんじま)、広島、与島、牛島など、28の島々から成る。潮流が渦巻く瀬戸内海の島々でも複雑に渦を巻き、「潮が湧く」ことから塩飽諸島と名付けられたともいう。中世から瀬戸内海航路の寄港地として、また潮流を自在に操る腕利きの船乗りが多く、戦国時代には塩飽水軍の基地として栄えた。

塩飽諸島の中心は、本島だ。丸亀港から北へ約11キロの沖合に浮かぶ周囲約16キロの小さな島で、行政区分は丸亀市になる。フェリーで約35分、水しぶきをあげて進む様子に水軍の気分を感じているうちに、本島泊港へと到着する。

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本島は、丸亀と倉敷の児島のちょうど中間あたりにある。北東部の海岸からは瀬戸大橋も見える

信長の時代までさかのぼれる特殊な体制

本島の代表的な観光名所のひとつが、塩飽勤番所跡だ。塩飽勤番所は、江戸時代初期に置かれた特殊な行政機関のこと。この地は織田信長や豊臣秀吉を経て、江戸時代には徳川幕府から朱印状を得た上で「人名(にんみょう)」と呼ばれる船方650人が共有する領地となっていた。人名から選ばれた4人の「年寄」が、交代で朱印状を管理しながらそれぞれの自宅で政務を取り扱う特殊な体制だったのだ。寛政期の改革により統治方法が変わり、塩飽勤番所で政務を行うようになった。塩飽勤番所は1798(寛政10)年に建造され、以後は選挙で選ばれた3人の年寄が交代で政務を務めた。

特殊な統治制度のはじまりは、信長の頃までさかのぼる。16世紀初めには能島村上氏が塩飽に進出していたが、天下統一を目指す信長は、瀬戸内海の制海権を掌握するために塩飽を支配下に置こうとしたとみられる。堺代官の松井友閑に宛てた、塩飽船が本願寺に加担したときは成敗する旨を記した1577(天正5)年3月付けの朱印状が残っている。1582(天正10)年には、信長の支配下にあったようだ。

秀吉の朱印状も残っている。1586(天正14)年の九州攻めでは、仙石秀久を総大将に四国から兵が豊後に派遣されている。その際、秀吉は50人乗りの船10隻と、1隻につき5人を塩飽から派遣するよう命じている。この朱印状が「塩飽年寄中」に宛てられていることから、すでに塩飽に年寄が置かれていたことがわかる。塩飽から派遣された船乗りたちは将兵をはじめ食料や武器の輸送に功績を挙げたと伝わり、1592(文禄元)年の朱印状では、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で船舶の建造を命じられている。そして、1600(慶長5)年9月付けの徳川家康の朱印状に、塩飽船方650人に対して1250石の領有を認める旨が記されている。

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年寄だった宮本家の歴代の墓。宮本家は古くからの塩飽の豪族で、水軍として活躍した

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島内にある、塩飽本島高無坊山石切丁場跡。江戸初期には、細川家が大坂城築城時にここで採石し搬出したことがわかっている

恐ろしく厳重に管理されたものは

現在残っている塩飽勤番所の建物は、1860(万延元)年に改築されたものだ。明治以降は村役場や丸亀市役所本島支所として、1972年まで使用されていたという。正面南側には本瓦ぶきの長屋門があり、東・西・北面は約42メートルの土塀に囲まれる。約450坪の敷地内にある式台のついた主屋は、式台の間、玄関の間、政務の間、台所の部屋から構成され、奥の離れは年寄の詰所として使われていたという。

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塩飽勤番所の長屋門

驚いたのは、中庭にある「朱印庫」だ。幕府からの朱印状を保管していた専用の倉庫だという。徳川将軍家からの朱印状は「朱印箱」に入れられていたのだが、三つ葉葵紋が入った金蒔絵(まきえ)の文箱に入れ、袋に入れて漆塗りの箱に収め、さらに白木の箱に入れて、豊島石製の石櫃(せきひつ)に収納していたという。その石櫃を、朱印庫の奥に格納していたというのだ。幕府からの朱印状となればそれほどの扱いをしていても不思議はないのだが、それにしても厳重な管理だ。

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朱印箱を入れた石櫃が格納されていたという、中庭の朱印庫

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朱印箱を収納した、豊島石でつくられた石櫃

笠島には重要伝統的建造物群保存地区

本島のもうひとつの観光スポットが、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されいる笠島の集落だ。笠島は北東端にある、三方を丘陵に囲まれた小さな港町だ。中世にはこの場所が中心地となっていたようで、その証拠に、集落の東には中世の拠点と思われる笠島城(東山城)がある。北には天然の港が開け、塩飽水軍の本拠地とされている。

笠島城跡には、土佐に配流となった法然上人が立ち寄った1207(建永2)年、すでに地頭が居を構えていたといわれている。天正年間に、長宗我部元親の襲撃により落城したようだ。海に突き出す標高約40メートルの東山にあり、東西約35メートル×南北約50メートルの本丸の東に2段の曲輪(くるわ)が続き、南北両尾根は堀切で分断されている。城山の西のふもとにある笠島集落は「城根(しろね)」と呼ばれ、水軍の拠点としての面影を残す。

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東山から見下ろす、笠島の集落。東山と西山に挟まれている

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笠島城の大規模な堀切。堀切や土塁がよく残る

風情ある集落内は、狭い通路が網の目のように通っていた。集落の東側にある、東山に沿って南北に通る「東小路」と、海岸線に平行して湾曲する「マッチョ通り」を主道路として、東西道路は両端で枡(ます)形となり、海岸に向かって櫛(くし)形に枝道が通る。各道路は直線ではなく弓なりに湾曲し、食い違ったり、T字形になったり、道幅を変えたりして、見通しがきかないよう工夫されている。

通りに面した古い建物の多くは、江戸時代後期から戦前に建てられたものだ。本瓦ぶきの厨子(つし)二階建てで、虫籠(むしかご)窓や格子窓を設け、下階には腰格子付き雨戸構えと出格子、窓格子を組み合わせた表構えの町屋形式の建物が多い。厚い土塀をめぐらせ、なかには海鼠(なまこ)壁の建物も。下屋根を支える「持ちおくり」には、塩飽大工が技を競ったという複雑な彫刻も見られる。

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情緒ある笠島の集落。道路が食い違っている

(この項おわり。次回は9月9日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■塩飽勤番所
https://www.city.marugame.lg.jp/sightseeing/history/03/page_03.html(丸亀市)

■笠島城跡
https://www.city.marugame.lg.jp/sightseeing/history/05/page_02.html
(丸亀市)

■笠島重要伝統的建造物群保存地区
https://www.city.marugame.lg.jp/sightseeing/history/03/
(丸亀市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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