鎌倉の風に吹かれて

ハイキングで出会った弁天様 源氏山と銭洗弁天

芥川賞作家の大道珠貴さんが、鎌倉を舞台にした旅情や人間模様を描く、毎回読み切りの超短編小説連載「鎌倉の風に吹かれて」。第4回は、銭洗弁天。ハイキングの途中で出会った弁天様に、思いを重ねる「私」の心情です。

ハイキングで出会った弁天様 源氏山と銭洗弁天

鎌倉に住んでいると、なかなか寺や神社には出かけないものだ。風景の一部としてしか見ていないし、人出が多いときは地元民が使う裏道のほうを通る。

有名な鎌倉五山のうち、建長寺や円覚寺の前を買い物ついでに通りがかると、よく、「写真、撮っていただけますか」と、頼まれる。「簡単なので。ボタン押せばいいんで」と、機器音痴の私にはよくわからないカメラもどきを手渡される。

長ネギやゴボウが飛び出し、豆腐やイモ類や酒瓶などの入った重いカゴを両肘にぶら下げたまま、撮ってあげる。せっかく観光地に来たのだから、素敵な一枚をと構図を考えて、うーんと唸(うな)りながら、私の身体も顔も、傾く。すると、そのようすに不安を抱き、じりじりしてきた観光客たちは、「だれにでもできます、ボタンボタン、それ押せばいいんで」と、大きな声を出す。そして、撮ったものをためしに見て、残念そうに、「あのう、もう一枚、念のために、いいですか」と、言ってくる。

ハイキングで出会った弁天様 源氏山と銭洗弁天

道を尋ねられることも多々ある。私はあまり信頼されない。杖をついた耳の遠いおばあさんに、身振り手振りでしどもど説明したあと、私なりに、やりきった感で振り返ると、おばあさんはまた別のひとをつかまえて、再度、尋ねていたこともあった。

ハイキングで出会った弁天様 源氏山と銭洗弁天

夏の暑さも一段落したころ、小高い山に登ってみたくなった。そうだ、源氏山に行こう。ハイキング、私にはちょっとした遠足、ささやかな旅。風に秋の匂いが混ざって、さわやかだろう。なんていったって、そこで食べる塩むすびはさぞおいしかろうと思ったのだ。ちょうど、まげわっぱも買ったことだし、ゆうべの残りのタラの西京焼き、味付け卵、茹(ゆ)でブロッコリーにタルタルソースをかけ、ミョウガの酢漬けと刺し身こんにゃくに酢味噌、冷蔵庫にあるものをちょこちょこ詰め、庭に生えたバランで仕切り、お茶とおしぼりも持って出かけた。

まず、その前に、銭洗弁天に寄った。

洞窟のなかは、ひんやりして、湿っていた。一人で耳を澄ませていると、ピチャンピチャンと、しずくの音がした。しかしすぐにだれかがやってきて、なかなか一人の音を楽しめない。洞窟のなかにきてまで、会社のこと、家族のこと、恋愛のこと、食べ物のことを、はしゃいでしゃべっている。世間の人々はあれこれ忙しいんだなあ。

ハイキングで出会った弁天様 源氏山と銭洗弁天

弁天様は静かにほほえみを浮かべておられた。芸能の神であり、ゆるんだ口元は色っぽく、もし生きて存在するなら、女としても母としてもこんなに美しい人はないだろう。

自分はこのようには生きられなかった、と私は述懐する。中途半端な人生だった。しかしまだまだこれからでもある。五十歳を過ぎると、寛大な女になった。それまでは、あれが嫌いこれが嫌い、と、偏見と差別の持ち主だったのだけれど、五十年の歳月は、私を角のとれたまるい女にした。なんだか誰のことも愛おしくなるときがある。ぎゅっと抱きしめたくなったり、急に感動が湧き起こり、目頭が熱くなったり、する。

いいか悪いかはわからない。ただ、第二の人生なんかじゃないということだけは、はっきりしている。一も二もなく、人生はただ一回きり、死は私を寛大に迎えてくれる、その懐に飛び込むまで私は前のめりに生きるだけなのだ。

泉があった。これが若さの泉であったら、私は飲むだろうか。飲まない。
私はざるにお金を入れもせず、洗いもしなかった。洗ったって、お金はお金。きれいも汚いもない。そんなことして奇跡が起こって増えたって、なんになろう。
人生、なにごとも、帳尻合わせはあとから来るに決まっているのだ。だから、現状で、いいと、悟っている。こんなことひとつとっても、自己発見だ。

ハイキングで出会った弁天様 源氏山と銭洗弁天

遠い日々に、そのころの自分に会いに、苦しさ、恥ずかしさ、惨(みじ)めさ、ちょっとした希望に思いを巡らせた初秋の一日、これこそが大切なのだ。

人生の旅は、まだまだつづく。
(写真・猪俣博史)

PROFILE

  • 大道珠貴

    作家
    1966年福岡市生まれ。2003年、『しょっぱいドライブ』で第128回芥川賞。2005年、『傷口にはウオッカ』で第15回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。小説に『ケセランパサラン』『ショッキングピンク』『煩悩の子』など多数。エッセーに『東京居酒屋探訪』。神奈川県鎌倉市在住。

  • 猪俣博史

    写真家
    1968年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業。卒業後、カナダを拠点に世界各地を放浪。帰国後、レコード会社、広告制作会社勤務などを経て1999年にフリーに。鎌倉、葉山を拠点に、ライフスタイル系のほか、釣り系媒体なども手がけ、場の空気感をとらえた取材撮影を得意とする。&wでは「鎌倉から、ものがたり。」の撮影を担当。神奈川県三浦半島の海辺に暮らす。

三カ月で消えた、私の恋 鶴岡八幡宮

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