城旅へようこそ

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、日本三大水城に数えられる香川県の高松城です。ウォーターフロントのさきがけともいえるこの城で必見なのは水手御門。その用途とは?

瀬戸内に面した日本三大水城のひとつ

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

本丸の天守台から北側を望む。瀬戸内海が迫っている


JR高松駅の改札を出て、徒歩5分もしないうちに見えてくるのが高松城だ。現在は高松市立玉藻公園となっており、市民の憩いの場でもある。ふと目を左に移すと、高松港が見え、静かな海が広がっている。そう、高松城は瀬戸内海に面して築かれた「海城」なのだ。日本三大水城のひとつとしても名高い。

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

高松シンボルタワーから見下ろす高松城。瀬戸内海に面しているのがわかる

堀には海水、悠々と泳ぐタイ

現在は埋め立てられてしまったが、江戸時代の絵図を見ると、高松城の北側には瀬戸内海が迫り、城は完全に瀬戸内海に面していた。高松築港駅の脇にある玉藻公園の西入口を入ったところが二の丸で、その東側に三の丸、北の丸、東の丸が並ぶ。本丸は城の中心となる、二の丸南側にあった。これらの東・西・南面を内堀が囲み、外側を同心円状に中堀と外堀が囲んでいた。三の丸と桜御門で通じる桜の馬場東側が、中堀の一部。現在アーケードになっている高松兵庫町商店街や高松片原町商店街北側の店舗が、おおよそ外堀の南端にあたる。

内堀と中堀には、水門を通じて海水が引き込まれている。そのため、堀をのぞき込むとタイが泳いでいるのが見える。和船に乗って内堀へ繰り出しエサやりができる「城舟体験」も人気。私も体験したことがあるが、堀の水は澄んでいて雰囲気がよく、タイの群れが悠々と泳ぐ姿を間近で眺められるのは、なんとも優雅な気分だ。餌を投げ入れるとタイが勢いよく集まってくるのが楽しい。

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

内堀にはタイをはじめ、海洋生物が泳いでいる

設計者不明 生駒氏から松平氏に

高松城は、1587(天正15)年に讃岐一国の領主となった生駒親正により、1588(天正16)年から築かれた。縄張(設計)は黒田孝高、藤堂高虎、細川忠興など諸説あるが定かではない。立地を考えると、1592(文禄元)年からの文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を見越して、瀬戸内海の航路を抑える豊臣秀吉の目論見(もくろみ)のもとに築かれたのかもしれない。親正による築城以前のこの地は「野原」と呼ばれ、発掘調査や文献史料などから、多くの寺院や小領主を抱えられる、経済的基盤のある港町だったと推察されている。四国の玄関口として、どうやら古くから栄えていたようだ。戦国時代の讃岐は、十河(そごう)氏や香西氏など割拠する小領主を長宗我部元親が制圧し、秀吉の四国攻めに元親が降伏した経緯がある。四国攻めの後、讃岐は秀吉配下の仙石秀久に与えられたが、秀久の九州出兵失敗により没収され、親正が入った。

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

海から見た高松城。城の北端に建つ月見櫓が見える

高松城を現在の姿へと改修したのは、生駒家の後に1642(寛永19)年に入った松平頼重だ。水戸徳川家の徳川頼房の長子で、12万石で東讃岐の領主となった。譜代大名により、高松城は瀬戸内海航路を押さえる城と城下町として改変され発展したのだ。城は1644(正保元)年から改修され、天守の改築や北ノ丸・東ノ丸が新造された。さらに、2代藩主の徳川頼常が、1676(延宝4)年に月見櫓(着見櫓)、1677(延宝5)年に艮(うしとら)櫓を建造。この頃、桜の馬場南側にあった大手門が、桜の馬場東側に新造された東御門へ移ったとみられる。1700(元禄13)年に三の丸御殿が完成した後は、大きな改変はされなかったようだ。

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

城の北端に建てられた、月見櫓・渡櫓・水手御門。かつてはここまで海が迫っていた

北の丸と東の丸の新造にともなって建てられた櫓(やぐら)のうち、4棟が現存している。特徴的なのが、瀬戸内海に面した月見櫓・渡櫓・水手御門(みずてごもん)の3棟だ。かつて海城だった頃の面影を残す、高松城ならではの建物だ。

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

左から、月見櫓、水手御門、渡櫓

月見櫓は「着見櫓」

北の丸の最北端にある三重三階の月見櫓は、「着見櫓」が本来の名とされる。到着を見る櫓、つまり船の出入りを監視する櫓だった。以前、内部に入ったことがあるのだが、窓からの瀬戸内海の眺望はなかなかのものだった記憶がある。南面に続櫓が付属している。

渡櫓は、新造前にあった海手門の部材を南側3間に再利用しているため、柱が細く、内壁も波型真壁となっているのが特徴だ。梁(はり)の継手に「延寳四年卯二月十日井上氏□□」とあることから、月見櫓と同じ頃に建てられたとみられる。

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

奥から月見櫓、続櫓。その左が水手御門

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

月見櫓。初重の切妻破風の下には石落としが設けられている

そして、必見は水手御門だ。海に向かって開いた門で、藩主はここから小舟に乗船して瀬戸内海に出た後、沖に停泊する御座船に乗り換えて参勤交代などに出かけたという。まさに海の玄関口にあたり、瀬戸内海側の大手門といったところ。ここから藩主が出入りしていたと想像するだけで、胸が高鳴ってしまう。

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

水手御門。幕末頃に建て替えられたと推定される

(つづく。次回は9月30日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■高松城
http://www.takamatsujyo.com/(史跡高松城跡 玉藻公園)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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