あの街の素顔

In Cardiff──#02カーディフの街とブリストルの話

この記事は、スポーツライター・井川洋一さんがつづる旅エッセーです。仕事で行った滞在先を思いの外、気に入ってしまう――。そんな経験ありませんか?

旅の舞台は、ずいぶん前ですが、UEFAチャンピオンズリーグ2016-17 決勝、ユベントス対レアル・マドリードの取材で訪れたイギリスウェールズ。全3回でお届けする2回目です。カーディフの街を歩き、なぜかバンクシーとブリストル出身のアーティスト、マッシヴ・アタックの話題へ。

【関連記事】
In Cardiff──#01地元の人たちにも理解できないこと

カーディフの街とブリストルの話

In Cardiff──#02カーディフの街とブリストルの話

旅先で街に恋をすることはたまにあるけど、この王国の小さな首都もそうだった。ロンドンから列車に乗って、カーディフ・セントラル駅に着いたとき、僕は宿の場所をいまひとつ理解していなかった。駅の案内所の素朴なおじさんは地図をくれ、とても親切に教えてくれたが、途中で道を確認したくなった。

「大通りを下って川を渡ったらクレア・ロードを右に折れて、ドルセット通りを左……」と、まずは電子地図を使わずにたどり着きたい。

そんな風にトランクを押しながらうろつく日本人旅行者風情に、通りすがりの小太りの少年が「よお、調子はどうだい?」と話しかけてきた。トニ・クロース(レアル・マドリード所属のMF)の縦パスのような、完璧なタイミングで。

「そこの交差点を右に曲がって、3本目の角を左だね。そこまで一緒に行ってあげるよ」

歩道を進みながら親切な少年と話をしていると、目の前の大きな黒人の男が道を走るバスの運転手に、「イェー!」と威勢よく拳を上げる。おそらく、友達の運転手にあいさつしたのだろう。するとその様子を見ていた僕に気づいて、「元気かい?」と言ってにっこりほほ笑んできた。

ロンドンでの体験と比べると、こうした人との触れ合いはすごく新鮮だ。旅はその時の自分自身を映し出す鏡。だとすれば、この出だしはとてもいい。

宿で僕を迎えてくれたアビーはブリストル出身の27歳。彼女の故郷は「最高の街よ。楽しいことがたくさん起こっている」と言った。アーティストのバンクシーと音楽グループのマッシヴ・アタックを輩出した街だ、さぞかし素敵なことが起こっているのだろう。元ヘアスタイリストの彼女は、赤とオレンジのチェックのワンピースを自然に着こなし、長いブロンドヘアの側面はツーブロックに刈り上げられている。左側の髪を三つ編みにしていて、そった部分が見え隠れする。その整然としたラインは、フランコ・バレージがいた頃のACミランの4バックを想起させた。

In Cardiff──#02カーディフの街とブリストルの話

バンクシーの作品「Girl with Balloon」。オークションの推定落札価格は15万英ポンド(約1980万円)から25万英ポンド(約3300万円)とされる。2019年8月。ロンドン (AP Photo/Kirsty Wigglesworth)

見るからにポジティブな彼女は、大きくて丸い目を輝かせながら僕に部屋を紹介し、リビングルームに戻るとソファを薦め、オレンジジュースを出してくれた。そして、彼女の出身地ブリストルのアートや音楽のシーンを生き生きと話した。

「バンクシーとマッシヴ・アタックの関係について、私は何も知らないけれど、彼らは私たちの誇るアーティストなの。ブリストルはとにかく面白い街よ。特に夜には、いろんなことが起こっている」

あの最高にクールな街の絵描き、バンクシーは素性を明かしていない。でもトリップホップの重鎮マッシヴ・アタックのメンバー“3D”ことロバート・デル・ナジャが絵画にも特別な才能を有していることもあり、実は3Dがバンクシーではないのかとのうわさ(本人は否定したとされる)が根強く残っている。

そんな話を振った僕の職業がフットボールの書き手だと知ると、「私はイングランド人だけど、フットボールについては2歳の赤ちゃんと同じくらいの知識しかないの。ごめんなさい。でもあなたに教えてもらいたい」と彼女は親切に言ってくれた。薄暗い午後にアビーと交わす会話はまだまだ続けたかったけれど、僕は記者証を取りにスタジアムに行かなければならない。「また夜に」と告げて、厚い雲に覆われたカーディフの街に出かけた。

スタジアムの脇を流れる川の縁には、白鳥やあひるの群れがいた。その中央には、しばらく洗濯されていないようなくたびれた服を着た、下を向いた小男がいる。痩せたおじさんはおそらく何年も満腹を知らないはずだが、鳥には惜しみなくエサを与えている。パンくずのような粉をまく時だけ、彼の手と腕は素早く動き、グレーにすすけた羽根をまとう鳥たちは音を立てておじさんの周りに群がった。

In Cardiff──#02カーディフの街とブリストルの話

アビーによると、ミレニアム・スタジアムの南西に位置するこのエリアはかつて、「なかなか危なっかしい」ところだったという。でも欧州フットボールの頂上決戦が行われるお祭りの前日に、おかしなことをする人もそういないだろう。ただ全体的にグレーがかった小さな王国の首都は、ところどころ陰影を湛えていた。

スタジアム近くのメディアセンターで記者証を受け取り、夕方の記者会見まで時間があったので、街を散策する。こぢんまりとした中心部をあてもなく歩いていると、カーディフ・セントラル・マーケットに行き当たった。薄い黄色い壁の大きな長方形の建物は長い年月を感じさせるものだったが、手入れが行き届いていて清潔さが保たれている。

1階には、生鮮食品やお茶、コーヒー、キャンディー、サンドイッチなどを扱う店が並び、それを見下ろすようにぐるりとテラスになった2階がある。

上がると、パブやカフェと一緒にレコード屋があったので、のぞいてみる。てっきりロックをメインに扱っているものと思ったが、どちらかというとソウルやリズム&ブルースなどの黒人音楽が多めだった。軒先の白い木製の陳列ケースにはカセットテープ(!)が並び、スプリームスの『バッド・ウェザー』が入ったブートレグっぽい緑のジャケットが気になって、手に取ってみた。でも、もはや再生装置を持っていないことに気づいて戻した。
In Cardiff──#02カーディフの街とブリストルの話

その横には音楽雑誌『NME』が平積みされている。1952年創刊の『New Musical Express』がフリーペーパーになっていたことを、このとき、初めて知った(現在はオンライン版のみ)。ゴンゾー・ジャーナリズム(※)のスタイルやパンク・ロックと密接に関わりながら育まれてきたメディアは、今もエッジの効いた表紙を誇示──ブレグジット決定後、初の総選挙を控える労働党のジェレミー・コービンが微笑みを湛えている。イギリスのバーニー・サンダースとも呼ばれる良心的なリベラルのリーダーだ。音楽と社会の密接なつながりが、この国にはある。それはずっと昔から続く伝統のようなものだ。

※1970年代に活躍した米国のジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンに代表される、主観的な記述も用いたジャーナリズム

(#03につづく)

PROFILE

  • 「あの街の素顔」ライター陣

    こだまゆき、江藤詩文、太田瑞穂、小川フミオ、塩谷陽子、鈴木博美、干川美奈子、山田静、カスプシュイック綾香、カルーシオン真梨亜、シュピッツナーゲル典子、コヤナギユウ、池田陽子、熊山准、藤原かすみ、矢口あやは、五月女菜穂、遠藤成、宮本さやか、小野アムスデン道子、石原有起、高松平蔵、松田朝子、宮﨑健二、井川洋一、草深早希

  • 井川洋一

    スポーツライター、編集者、翻訳家。学生時代にニューヨークで写真を学び、現地の情報誌でキャリアを始める。帰国後、『サッカーダイジェスト』誌で記者兼編集者を務める間に英『PA Sport』通信から誘われ、香港へ転職。『UEFA.com日本語版』の編集責任者を7年間務めた。世界中に幅広いネットワークを持ち、現在は様々な媒体に寄稿する。1978年、福岡県生まれ、鎌倉市在住。

ショパンの心臓に岩塩の礼拝堂! ポーランドで必見の教会5選

一覧へ戻る

In Cardiff──#03ささやかな宴の始まり

RECOMMENDおすすめの記事