あの街の素顔

In Cardiff──#03ささやかな宴の始まり

この記事は、スポーツライター・井川洋一さんがつづる旅エッセーです。仕事で行った滞在先を思いの外、気に入ってしまう――。そんな経験ありませんか?

旅の舞台は、ずいぶん前ですが、UEFAチャンピオンズリーグ2016-17 決勝、ユベントス対レアル・マドリードの取材で訪れたイギリスウェールズ。ちなみに試合の結果は、1対4でレアル・マドリードが勝ちました。全3回でお届けする最終回、その結末は?

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ささやかな宴の始まり

In Cardiff──#03ささやかな宴の始まり

30代のなかばを過ぎた頃からだったろうか。外国で旅をしていると、突如として、無性に日本の味が恋しくなる。若い頃は1人でどこにいようと、そんな衝動は起こらなかったのに。それは歳(とし)をとった、ということなのか。

ウェールズの首都カーディフのセントラル・マーケットでも、急にそんな状態になった。でも2階のテラスで食事ができるのはパブくらいで、1階にはカウンターのある小さな食堂がいくつかあったけれど、やはり日本食はない。ただ1軒だけ、タイ料理の店があった。すがるように、アジアの味を求めた。

「まだ準備中なの。ごめんなさい。あと20分くらいで、なにか出せると思うけど」と清潔な店の中にいた女性は言った。腹をすかせた客を気遣うように、とても申し訳なさそうに。

そんな心遣いがうれしかったから、飲み物を頼んで、食事ができるまでカウンターにいることにした。そして笑顔を絶やさない彼女に、いくつか質問をした。ここにたどり着いた理由、カーディフの生活、そんなことを。

「8年くらい前にバンコクで今の旦那さんと出会って、こっちに来たの。カーディフは彼の故郷だから。ご覧のとおり、小さいけれど、自分の店を持ててすごく幸せ」

手際よく仕込みを続けながら、彼女は話す。

「カーディフはこぢんまりとした素敵な街。バンコクの方が都会だし、確かにここで快晴の空は珍しい。でもオープンな人が多くて、困ったことがあれば、すぐに助けてくれる。それに私たちは自分で食事をつくるから、あなたのようにお国の味が恋しくなっても大丈夫」

そう言ってまた笑った彼女は、できたてのパッタイと春巻きを出してくれた。125年以上の歴史を持つビクトリア様式の市場──かつては刑務所があったという──で、ウェールズ人とタイ人の大恋愛を想像しながら食べるタイ料理。こんな組み合わせも、もちろん全然悪くない。なんとなく甘酸っぱい味が強かったのは、ライムとナンプラーのせいだけではなかったと思う。ひとり旅で時々、不思議と心細くなるようになったのも、歳をとったからだろうか。

「試合を楽しんで。私は見ないけど」とタイ人の女性は快活に言って、笑顔で見送ってくれた。

そこから歩いて5分ほどのところにあるカーディフ城は、この日、一般に開放されていなかった。外壁にはチャンピオンズリーグ決勝に合わせて、ベイルやパウロ・ディバラ、香川真司らの垂れ幕が飾られていた。

In Cardiff──#03ささやかな宴の始まり

アニメ『天空の城ラピュタ』の舞台は、ウェールズを大いに参考にしたそうだ。城の宝庫で、カナーヴォン城のように、ユネスコの世界遺産に登録されているものもある。また北部のリゾート地、スランディデュノは『不思議の国のアリス』の舞台になったとされる。西の海岸線、広大な山地の丘陵線、そのどちらもが声をなくすほど美しいと聞く。

なんだか、カーディフの中心地しか見られないのは、残念な気がしてきた。フットボールの現場や地元の人々の暮らしを見ることも、もちろん大事なのだが。

豊かな緑に覆われた公園を抜け、スタジアムに戻り、記者会見を取材する。ユベントスのベテランGKジャンルイジ・ブッフォンのリラックスした姿が印象的だったが、結果を知った今なら、それが強調された自然体だったような気もする。逆に普段は陽気なレアル・マドリーのSBマルセロは、世界中のメディアからの問いに淡々と受け答えしていた。

その後にいくつか原稿を書き終えて宿に戻る。すると夜もすっかり更けていたというのに、ホストのカップルが待ってくれていた。

アビーは僕をキッチンに呼び込むなり、「おかえり。さあ、私たちにフットボールのことを話して。イングランド人とウェールズ人の私たちに、日本人のあなたの口から」と口角を上げて楽しそうに言う。そして3人でビールの缶とグラスを持って、奥のドアの外の小さな庭に出た。地元のラジオ局は20年前のジャネットの名曲『Got ’Til It’s Gone』を鳴らしている。

「じゃあ、まずはカーディフ出身のベイルの話から。彼は4年前にレアル・マドリードに加入した。その移籍金は1億ユーロとも言われているんだ」

アビーとアッズの顔色が変わった。

「ガレス・ベイル? ただボールを蹴るのがうまいだけでしょ?」

決戦を翌日に控えたウェールズの首都の片隅で、ささやかな宴が始まった。

(終わり)

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PROFILE

  • 「あの街の素顔」ライター陣

    こだまゆき、江藤詩文、太田瑞穂、小川フミオ、塩谷陽子、鈴木博美、干川美奈子、山田静、カスプシュイック綾香、カルーシオン真梨亜、シュピッツナーゲル典子、コヤナギユウ、池田陽子、熊山准、藤原かすみ、矢口あやは、五月女菜穂、遠藤成、宮本さやか、小野アムスデン道子、石原有起、高松平蔵、松田朝子、宮﨑健二、井川洋一、草深早希

  • 井川洋一

    スポーツライター、編集者、翻訳家。学生時代にニューヨークで写真を学び、現地の情報誌でキャリアを始める。帰国後、『サッカーダイジェスト』誌で記者兼編集者を務める間に英『PA Sport』通信から誘われ、香港へ転職。『UEFA.com日本語版』の編集責任者を7年間務めた。世界中に幅広いネットワークを持ち、現在は様々な媒体に寄稿する。1978年、福岡県生まれ、鎌倉市在住。

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