城旅へようこそ

再建なるか、四国最大の個性的な天守 高松城(2)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、日本三大水城に数えられる高松城(香川県)の天守について。現在復元を目指している天守は、ちょっと変わっていたそうです。どこが個性的だったのでしょう。

本丸へのルートは鞘橋のみ

再建なるか、四国最大の個性的な天守 高松城(2)

高松城の中心部を見下ろす。中央が本丸で、天守台が建つ

<海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)>から続く

高松城は、瀬戸内海の海水を引き込んだ海城だ。本丸へは、二の丸からかけられた鞘橋(さやばし)が唯一の経路で、本丸東端には三重四階地下一階の勇壮な天守が立っていた。

1640年代の半ば頃、松平頼重(1622~95)の時代の高松城と城下町を描いたとされる「高松城下図屏風」(香川県立ミュージアム蔵)を見ると、鞘橋は欄干がついた屋根のない橋で、かつては「らんかん橋」と呼ばれていたようだ。1823(文政6)年、石垣と堀の修築申請時に描かれた「讃岐国高松城石垣破損堀浚之覚」(臼杵市教育委員会所蔵)には屋根が描かれていることから、江戸時代中期までに取り付けられたと思われる。本丸は多聞櫓(たもんやぐら)で取り囲まれ、北に中櫓と中川櫓、北西隅に矩(かねの)櫓、南西隅に地久(ちきゅう)櫓が建てられていた。生駒家〜松平家初期までは、本丸に御殿があったようだ。

再建なるか、四国最大の個性的な天守 高松城(2)

本丸と二の丸をつなぐ鞘橋

天守は高さ約26.6メートル、四国最大だった

高松城の天守は、1884(明治17)年、老朽化のため解体された。史料や発掘調査から、建物部分の高さは約26.6メートルと推定されている。約25メートルの松本城(長野県松本市)天守、約22.4メートルの松江城(松江市)天守よりも大きな、四国最大の天守だった。天守台の高さは水中の根石から約14.4メートルで、天守台まで含めた高さは約41メートルに及ぶ。

生駒時代の天守の姿はわかっていないが、1670(寛文10)年に松平頼重によって竣工した天守は、1882(明治15)年12月30日に撮影された写真を見ると、珍しい形をしている。最上階が下の階より張り出した「南蛮造り」と呼ばれる形式で、しかも1階の床面が天守台より大きく、張り出している。天守が解体された後、天守台の上には、松平頼重を祀(まつ)る玉藻廟(びょう)が建てられたが、2007(平成19)年からの石垣修理工事に伴い解体。2013(平成25)年には石垣解体修理が終了して、新たな高松城の見学スポットとなっている。

再建なるか、四国最大の個性的な天守 高松城(2)

解体修理された天守台

解体修理でわかった珍しい構造

石垣の解体修理工事により、天守台や天守の構造が明らかになった。天守の入口は1階にあり、幅約2.8メートル、高さ約2.7メートル、奥行約4.3メートルの階段を上がったようだ。石垣で囲まれた地下1階の内部には石垣が見つかり、これは玉藻廟を建設する際つくられた基礎部分だった。この基礎を撤去したところ、天守地下1階の規模は東西約14メートル、南北約12メートル、深さ約2.7メートルであると判明。床面で確認された58個の礎石のうち、入口の6個以外は「田」の字のように並んでいた。中央の大きな礎石は、天守解体時に動かされたとみられる形跡があった。

興味深いのは、「田」の内側、礎石のない四角い空白部分4カ所に柱穴が検出されたことだ。直径約1.5~2メートル、深さ1.5メートルで、下部には礎石が据えられていたという。掘立柱と礎石を併用した、珍しい構造の天守だったようだ。北西と南東の柱穴には、直径30センチほどの丸柱が70~80センチ残存。放射性炭素C14年代測定法で調べたところ、1630年から1660年の間の木材である可能性が高く、松平頼重が改築した際に伐採されたものと考えられる。

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天守台の礎石

艮櫓、移築でぐるり90度回転

城内には、<海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)>で述べた月見櫓、水手御門、渡櫓のほか、1677(延宝5)年に完成した艮(うしとら)櫓が現存。いずれも重要文化財に指定されている。

艮櫓は、内曲輪(くるわ)の大手門だった旭門のそばにある、桜の馬場に建つ三重三階の櫓だ。「艮(丑寅)」は北東の意味で、かつては城の北東にある東の丸に建っていたが、1967(昭和42)年に、太鼓櫓のあった現在の場所に移築された。よく見ると石落としの位置などがおかしいのは、移築の際、太鼓櫓台の石垣を城内側に拡張したうえで、櫓を時計回りに90度回転して設置したためだ。

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現存する艮櫓。東の丸から移築された

生駒時代には桜の馬場の中央南端に大手門があり、西側に家臣の屋敷や藩政を行う対面所が建っていた。しかし松平頼重・頼常による改修に伴って、三の丸に新たな御殿が設けられると、武家屋敷は桜の馬場の外へ移され、東端に新たに大手が設けられた。大手に現在も残る旭橋は、旭門に対して斜めにかかる筋違橋。敵の直進を防ぎ側面から攻撃できる構造とされる。

旭門を抜けたところの枡形(ますがた)と呼ばれる空間も、敵を閉じ込められるしくみだ。しかし枡形内は、さまざまな形の切石をモザイク状に組み合わせた精緻(せいち)なつくりの石垣になっており、どちらかというと城の大手らしい見栄えへのこだわりが感じられる。枡形北面の石垣をくり抜いた形状の埋門(うずみもん)という小さい門は、門柱に鉄板が張られていたようだ。

再建なるか、四国最大の個性的な天守 高松城(2)

埋門。切石を使った石垣も印象的

こんなところにも石垣が

東の丸は、現在、香川県県民ホール(レクザムホール)や香川県立ミュージアムが建っているあたりだ。外曲輪の魚屋(いおのたな)があった場所に1671(寛文11)年から造られた。北側に米蔵丸と呼ばれる米蔵、南側に作事丸と呼ばれる作事(工事)の中心部があった。東の丸は、現在は石垣の鑑賞スポットでもある。北東部に残る石垣と、それに続く東側の石垣が県立ミュージアム建設に伴う発掘調査で確認され、復元されている。レクザムホール内に復元保存されている、丁字型の石垣も見ものだ。

再建なるか、四国最大の個性的な天守 高松城(2)

香川県立ミュージアムで復元保存されている石垣

別邸「披雲閣」と名勝「栗林公園」

三の丸には、1700(元禄13)年に城主御殿として披雲閣が建てられ、幕末まで藩政の中心地となったが、明治に入って老朽化のため取り壊された。現在三の丸に現存する披雲閣は1917(大正6)年に、高松松平家第12代当主の松平頼壽(よりなが)伯爵の別邸として建てられたものだ。三の丸と桜の馬場の間には高さ約9メートルを誇る巨大な桜御門があったが、空襲で焼失。石垣には空襲の熱による変色が見られ、戦火の激しさを物語っている。

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三の丸にある、現在の披雲閣

再建なるか、四国最大の個性的な天守 高松城(2)

城内の石垣には火災痕が残る

さて、高松城とセットで訪れたいのが、特別名勝の栗林(りつりん)公園だ。初代藩主の松平頼重が本格的な整備をはじめ、1745(延享2)年に5代藩主・頼恭(よりたか)が完成させた大名庭園だ。歴代藩主が修築を重ねながら、高松松平家の下屋敷として228年間使用された。日の出とともに開園するため、私は高松に宿泊した翌日は早起きして栗林公園を訪れ、紫雲山を背景に北湖畔にたたずむ花園亭で朝粥(あさがゆ)をいただくことにしている(要予約)。隅々まで手入れされた美しい庭園を眺めながら、心静かに健康的な朝食をいただく時間がたまらない。

再建なるか、四国最大の個性的な天守 高松城(2)

栗林公園。庭園を眺めながらいただく朝粥は最高

(この項おわり。次回は10月7日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■高松城
http://www.takamatsujyo.com/(史跡高松城跡 玉藻公園)

■栗林公園
https://www.my-kagawa.jp/ritsuringarden
(うどん県旅ネット)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

海に開けた水手御門、何のため? 高松城(1)

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