鎌倉の風に吹かれて

温泉で、ふと脳裏によぎる、パリの男 稲村ケ崎

芥川賞作家の大道珠貴さんが、鎌倉を舞台にした旅情や人間模様を描く、毎回読み切りの超短編小説連載「鎌倉の風に吹かれて」。第6回は、稲村ケ崎。知人と温泉に来た「私」は、ほろ酔いの中、ふと、「パリの男」へ思いをはせます。

温泉で、ふと脳裏によぎる、パリの男 稲村ケ崎

 いつも似たようなところだから、温泉にしませんか。

 待ち合わせ場所は、私から提案した。
 「ほう。鎌倉に、温泉?」
 オオスギ氏はいつも私の提案を面白がり、それでいて、半信半疑だ。
 いい?と不安げに訊(き)いたら、「いいすよ」と、三十代の働き盛りの男らしい、軽快な即答である。

温泉で、ふと脳裏によぎる、パリの男 稲村ケ崎

 ときめく。

 「まずお仕事の話。それから、温泉、そばの洋風居酒屋で、ビールと湘南の海鮮もろもろ。あなたは、焼酎(しょうちゅう)はだめだから、ビールがいろいろ揃(そろ)ってるそこはいいと思うな」
 このときめきは、五十三歳の私が、自分のかわいい息子に言う感覚である。

 なにか訊けば、「好きでもない、嫌いでもない」と、オオスギ氏は、正直に答える。
 四国の漁村で育ったというその目を覗(のぞ)くと、どこかこちらを寄せつけない凄味(すごみ)がある。

温泉で、ふと脳裏によぎる、パリの男 稲村ケ崎

 稲村ケ崎。こんなところに、温泉が。
 そう、あるんである。
 「一時間後、会おう。私はたっぷり堪能するから」
 私は宣言した。
 「どうぞ。ぼくは、ビール飲んで、ぐてんぐてんだと思うな」
 彼は、温泉に、はなっから興味がない。

 とってつけたような竹林、つるつるしたお湯。ぼうっと、夕月を見上げる。
 「おうい」
 女湯は私のほかに誰もいないので、男湯のほうへ、声をかけてみた。
 「ほうい」
 オオスギ氏の、間延びした声が、すかさずかえってきた。疲れているようだ。しかし彼はそんなことは私に言わないし、気を遣われたくない男である。

温泉で、ふと脳裏によぎる、パリの男 稲村ケ崎

 チーズ五種盛りピザ、酵母パン、オニオンリング、短冊切りやまいも、野菜のオイスター炒め、キュウリ入りちくわ、サケ茶漬け。
 まあまあ、美味(おい)しい。
 ゆであがった蟹(かに)のような顔で、三十代の彼と、居酒屋で仕事の話をしつつ、私は一度だけ行ったパリのことを思い出していた。

 そのとき私は三十代で、二十も年上の男を追いかけて、ただ、欲望で突っ走った。
 「音楽が好きなだけだ。音楽で食べて行こうとは思わない」
 そう語る、ほとんどホームレス状態の、素敵な紳士だった。

 私は彼にふられた。キミの助けなどいらないと。
 「何か勘違いしてるんじゃないか」。彼は激怒した。あの顔、忘れられない。
 「キミを恋しいだけで、愛してはいないんだよ。愛なんてキミだって否定してるじゃないか」

温泉で、ふと脳裏によぎる、パリの男 稲村ケ崎

 恋。

 そんな概念を与えてくれた、パリの紳士に、いまは、「まあ、ありがとう」と思う。
 過去のほうが鮮明で、ありありと浮かび上がる、静かな稲村ケ崎の夜。いまあるこの世が幻かもしれないじゃあないか。
 (写真・猪俣博史)

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PROFILE

  • 大道珠貴

    作家
    1966年福岡市生まれ。2003年、『しょっぱいドライブ』で第128回芥川賞。2005年、『傷口にはウオッカ』で第15回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。小説に『ケセランパサラン』『ショッキングピンク』『煩悩の子』など多数。エッセーに『東京居酒屋探訪』。神奈川県鎌倉市在住。

  • 猪俣博史

    写真家
    1968年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業。卒業後、カナダを拠点に世界各地を放浪。帰国後、レコード会社、広告制作会社勤務などを経て1999年にフリーに。鎌倉、葉山を拠点に、ライフスタイル系のほか、釣り系媒体なども手がけ、場の空気感をとらえた取材撮影を得意とする。&wでは「鎌倉から、ものがたり。」の撮影を担当。神奈川県三浦半島の海辺に暮らす。

もっと素直に泣けるようになりたい 葉山

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