心に残る旅

為末大さんのペルーとブータン アスリート人生見直す機会に

いつもと違う場所で風に吹かれた経験は、折に触れて思い出すもの。そんな旅の思い出を各界で活躍するみなさんにうかがう連続インタビュー「心に残る旅」。第13回は五輪に3大会連続で出場した陸上男子400メートルハードル日本記録保持者、為末大さんです。
(聞き手・溝上康基、写真・谷口健一)

「陸上選手引退」を思いとどまったペルー

為末大さんのペルーとブータン アスリート人生見直す機会に

――陸上選手として世界各国を転戦されてきたと思いますが、これまでの人生で最も心に残っている旅の思い出をお聞かせください。

「50~60カ国を訪れてきましたが、特に印象深い旅の思い出が二つあります。一つは、北京五輪の後、30歳のときに妻と2人で旅行をしたペルーです。それまでは、旅に行くときは必ず陸上用のスパイクを持って出掛けていましたが、この旅では、初めてスパイクを持っていかなかったんです。実は、このとき、陸上競技からの引退を考えていたのです」

――なぜ、その旅でペルーを選んだのですか。

「妻は私以上に世界各地の国を訪れていましたが、2人とも南米には1度も行ったことがなかったんです。行程は、首都のリマからクスコ、世界遺産のマチュピチュ。標高約3800メートルにあるチチカカ湖などを飛行機やバスなどを使って約1週間かけて回りました。その間、ランニングなどのトレーニングは一切しませんでしたね(笑)」

――どんな旅でしたか?

「それまで旅で訪れた街では、私はオリンピック選手として、よく声をかけられていましたが、ペルーではどの街へ行っても誰も私の顔を知らない。そもそも、みんなオリンピック自体をあまり知らないし、私のようなオリンピアンにも興味がないんですよ。この経験は、私の人生に大きな影響を与えてくれました」

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――どんな影響を与えたのでしょうか。

「引退を思いとどまるきっかけになりました。ペルー旅行を決めたときには、すでに私の頭の中では8割方は引退しようと思っていたのですが……」

――その理由は、何だったのですか。

「自分がそれまで人生を懸け、大事なこととして取り組んできた陸上競技が、ペルーでは違った。サッカーは知っていても陸上にも五輪にも興味がないんですから。そんなものなのか、という寂しさの一方で、心が楽になりました。壮大なものを背負っていると思い込んできたのに、ペルーの子供たちにはオリンピックの話をしてもまったく反応がないのですから。でも、そんな子供たちの顔を見ていると、もっと自由に陸上競技に取り組んでもいいのではないか? そう思えてとても気が楽になったんです。そして、引退する気持ちはなくなり、もういちど陸上と向かい合うことができるきっかけになりました」

引退後の生き方を見つけたブータン

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――心に残る、もう一つの旅とは?

「陸上競技を引退後、34歳のときに訪れたブータンです。きっかけは日本人の友人がブータンの観光局のホームページを作成していたことから、この友人に誘われ、訪れることになりました」

――そこでは、どんな出会いがありましたか。

「ブータンで旅をする途中、現地の陸上競技の協会の会長などとも会ったのですが、会長から、『ここには陸上のコーチがいないんだ』と聞かされたんです。現地を歩き、地元の陸上選手たちの練習環境を見ていて、自分が、これからやるべきことが見つかった気がしました。私たち日本の元陸上選手たちが、コーチとしてブータンに赴けばいいのではないかと。さらにブータンと同じような環境にあるラオス、カンボジアなどアジアの国々で陸上競技に取り組む子供や若い選手の育成のために、日本の陸上選手が貢献できるのではないかとも思いました。私の引退後の課題の一つでもあった日本の陸上選手たちの引退後のセカンドキャリアにもつなげることができるのではないかと」

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――そんな経験から、ブータン五輪委員会のスポーツ親善大使に就任したのですね。

「ペルーの旅で、地元の子供たちがオリンピックを知らないと知りましたが、ブータンなどアジアの多くの国でもそうでした。現在、オリンピックは先進国の祭典となりつつあり、まだまだ発展途上国では根付いていません。そんな国の子供や若者たちを、日本の陸上選手たちが指導し、メダルをとれる選手に育成する。そんな貢献ができるのではないかと考えています」

――陸上競技を引退後、家族旅行には出かけましたか?

「ブータンには今年4歳の息子を連れて行ったんですよ。これからも一緒にいろいろな国へ連れていき、世界を見せてあげたいと思っています」

――子供と親が一緒に読む親子向けの新刊「生き抜くチカラ」を刊行されましたね。

「親子で読める、話せる、考えられる本を書かないか、と依頼され、オリンピック選手としてのこれまでの私の経験から得た〝生き抜くチカラ〟を伝えることができたらと思って書きました」

これからも旅から学ぶ人生を

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――陸上選手として旅から得たものは多かったのでしょうか。

「いくつもありますよ。例えば、私の身長は170センチで日本人成人男性の中では平均ぐらい。日本では175センチあれば大きい方ですね。ところが、オランダのハーグを訪れたときに、オランダ人男性の平均身長が184センチもあることを知りました。また、日本にいると私の性格はよく社交的だと言われますが、南米へ行くと、内向的だと言われました(笑)。陸上の個人競技では、自分らしさを知るための分析が重要なのですが、日本にいるだけでは絶対に分からない、こんな分析を、世界を旅することでできるようになりました。旅をすることで必ず視点が高まるんです」

――来年は、いよいよ東京五輪が開催されます。オリンピアンとして期待することや提言はありますか。

「日本人選手は大活躍すると思いますよ。そして、東京五輪は大成功するでしょう。ただ、成功したことに、みんなが満足してしまうことを今から心配しています。一つ一つの競技結果などを冷静に分析、検証し、将来の日本のスポーツの在り方を考えていく……。成功だけを喜んで終わるのではなく、そんなきっかけにしなければならないと考えています」

――将来、行ってみたいところはありますか。

「エルサレムや、まだ行ったことのない中東の国を訪れてみたいですね。現役時代、陸上競技で記録を出すためには、肉体面を鍛えるだけではだめで、精神面をいかに鍛えるかが重要なことを知りました。仏教、キリスト教、ヒンズー教、ユダヤ教など、世界の国々の陸上選手を見ていて、宗教観が大きく影響していることが分かりました。中東などを旅しながら、そんなルーツを学び、コーチングの技術に生かすことができれば、と考えています」

INFORMATION

為末大さんのペルーとブータン アスリート人生見直す機会に

為末大さんの新刊「生き抜くチカラ ボクがキミに伝えたい50のことば」(日本図書センター、税別1300円)が発売中です。「ときには、空気を読まない」「『努力』は『夢中』に勝てない」など、世界で活躍したアスリートが自らの体験から編み出した、親子へ伝えたい50の格言を収録しています。

■「心に残る旅」バックナンバー
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・著名人に聞く「心に残る旅」 バックナンバー一覧はこちら

PROFILE

旅する著名人

家入レオ、ふかわりょう、HARUNA(SCANDAL)、福士蒼汰、加古隆、池内博之、吉田戦車、清水尋也、しりあがり寿、高畑充希、松本穂香、江國香織

為末大

為末大

1978年広島市生まれ。法政大学卒業。2001年の世界陸上選手権で出した男子400メートルハードル47秒89の日本記録はいまだ破られていない。2000年のシドニーからアテネ、北京と3大会連続で五輪出場。12年に現役を引退。現在はスポーツとテクノロジーに関するプロジェクトを手がける「Deportare Partners」代表。「アスリートが社会に貢献する」を目標に、17年にはサッカーJリーグ「V・ファーレン長崎」のフィジカル・アドバイザーに就任するなど幅広い活動に取り組んでいる。

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