城旅へようこそ

崩落しても名城! 城ファンがうなる「石の要塞」 丸亀城(1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、香川県丸亀市の丸亀城です。台風で石垣が崩落するなど大きな被害を受けましたが、実は、全国でも屈指の人気を誇る城なのです。そのわけは?

豪雨と台風で石垣が大崩落

崩落しても名城! 城ファンがうなる「石の要塞」 丸亀城(1)

「石の要塞」と呼びたい威容の丸亀城

全国の城を歩いていると、城とは地域のアイデンティティーなのだと痛感する。熊本城(熊本市)に代表されるように、城は地域のシンボルであり住民にとって精神的な支柱なのだ。だから、ここ数年の相次ぐ災害で各地の城が被害を受けているのは心が痛む。もちろん、城の復旧は生活の復旧より優先されるものではないが、城を後世に引き継いで欲しいと切に願う。今回は、2018年7月の西日本豪雨とその後の台風で2度にわたって石垣が大崩落した、丸亀城(香川県丸亀市)の状況を取材した。

崩落しても名城! 城ファンがうなる「石の要塞」 丸亀城(1)

大崩落した丸亀城の石垣(2019年3月17日撮影)

4段の石垣、累計で日本一の高さ

まず、丸亀城の魅力をお話ししよう。丸亀城は、城ファンが「1度は訪れてみたい」とこぞって名を挙げる名城だからだ。最大の魅力は、何度訪れても圧倒される、壮大な石垣。JR高松駅から予讃線に乗り丸亀駅に近づくと、車窓から丸亀城の石垣が見えるのだが、その姿はヨーロッパの古城を連想させるほどだ。まさに「石の要塞(ようさい)」ともいうべき威容を誇る。

丸亀城の石垣は、累計で日本一の高さを誇る。山麓(さんろく)の内堀から山頂の本丸まで4段に重なり、高さは合計すると60メートル以上。標高66メートルほどの山に、曲輪(くるわ)をひな壇状に配置しているため、それを囲む石垣や建造物がおのずと密集し、石垣が折り重なって見える。実際に訪れると、城の面積に対して石垣が多く、その迫力に驚くはずだ。

崩落しても名城! 城ファンがうなる「石の要塞」 丸亀城(1)

本丸まで4段に重なる石垣は、累計で高さ日本一を誇る

丸亀城を築城したのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとで乱世を生きた、生駒親正(ちかまさ)だ。讃岐国(現在の香川県)を与えられた親正は高松城(高松市)を本城とし、西讃岐を押さえる支城として1597(慶長2)年から丸亀城を築いた。城は1602(慶長7)年には、ほぼ完成したとみられている。

廃城から異例の復活をした理由

1615(元和元)年、徳川幕府が一つの領国に一城のみを残してそのほかを廃城とする「一国一城令」を公布すると、讃岐では高松城が残され、丸亀城は廃城となった。本来ならばここで丸亀城の歴史は終わるのだが、なんと丸亀城は異例の復活を遂げる。1641(寛永18)年、お家騒動(生駒騒動)により讃岐が分割され、丸亀藩が立藩したのだ。

5万石で山崎家治が丸亀藩主となって入国すると、1643(寛永20)年から家治によって丸亀城は現在の姿へと大改修された。現在残っている石垣は、ほとんどが山崎時代の築造だ。1645(正保2)年に再築を願い出る際に幕府に提出した「正保城絵図」を見ると、縄張はほぼ現在と一致する。

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美しい勾配を描く高石垣。山崎時代に積まれた


崩落しても名城! 城ファンがうなる「石の要塞」 丸亀城(1)

圧巻の石垣。瀬戸内海側では高さ20メートル以上のものも

再築になんと幕府の援助が

注目したいのは、家治が幕府から銀300貫の資金援助と参勤交代の免除を受けて丸亀城を再築していることだ。例外的な措置が取られたのは、1637(寛永14)年の島原・天草一揆を受け、幕府が瀬戸内の島々に潜むキリシタンの蜂起を警戒したためだろう。幕府は一揆軍の籠城(ろうじょう)を防ぐべく、キリシタンが多い九州や瀬戸内海沿岸の城を強化し、廃城になっていた拠点的な城の破却を徹底している。瀬戸内海に面した丸亀城も、そうした一面を持っていたのではないだろうか。

当時の丸亀城の大手(正面)が、瀬戸内海のある北側と反対の南側にあったのも、こうした事情があってのことと思われる。丸亀城の大手は、1670(寛文10)年に現在の瀬戸内海側に移され、それまでの大手は搦手(からめて=裏手)となったが、搦手口からの登城道のほうが、いかにも正面玄関という貫禄がある。豪壮な高石垣が次々に立ちはだかり、来城者を威嚇するような設計を感じられるのだ。

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現在の搦手口。かつては大手だった


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現在の大手門。立派な枡形(ますがた)門が現存する

ふらりと丸亀城を訪れて城内を散策しても、あまり海に面した城の印象は抱けないかもしれない。しかし、本丸から見渡すと、丸亀港が迫っていることがわかる。先日驚いたのは、塩飽(しわく)諸島から丸亀港へ帰港したときのこと。丸亀港に近くにつれ、丸亀城がぐんぐん迫ってきて威圧感を覚えた。瀬戸内海側から見ると、丸亀城はいかにも海からの攻撃を牽制(けんせい)する海城という印象だった。

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本丸から北側を見渡す。すぐ近くに瀬戸内海と丸亀港が迫っている

現存12天守で最も小ぶり

さて、丸亀城といえば、全国に12ある江戸時代から残る天守を擁する城としても知られる。三重三階の天守は、山崎家断絶後の1658(万治元)年に入った京極高和によって1660(万治3)年に築かれた。天守の鬼瓦や丸瓦には京極家の家紋・四つ目結紋が燦然(さんぜん)と輝いているのはそのためだ。どうやら丸亀市民にとっては、城の原型を築いた山崎氏よりも幕末まで藩主を務めた京極氏のほうが身近なようで、町中でも京極の名のついた飲食店や四つ目結紋をモチーフにした店舗ロゴをよく見かけた。

崩落しても名城! 城ファンがうなる「石の要塞」 丸亀城(1)

丸亀城の天守。現存する12天守の中でもっとも小さい

江戸時代には御三階櫓(やぐら)と呼ばれた天守は、現存天守のなかでもコンパクトだ。しかし、小さな天守が城下から少しでも大きく見えるよう、さまざまに工夫されているとみられる。正面にあたる北面は、左隅に出窓のような張り出しを設け、素木の格子をつけてデザイン性を高めているようだ。二重目には唐破風(はふ)、南面には千鳥破風を飾り、華やぎを添えている。

よく見ると、最上重は不思議な構造をしている。丸亀城のように、一重目が東西に長い場合は、最上重の入母屋屋根の棟(一番高い場所にある接合部分)は東西に向けるのが一般的。しかし丸亀城天守の棟は南北に向いている。北面に入母屋破風の妻面を向けて大きく見せようとしたためと思われる。

崩落しても名城! 城ファンがうなる「石の要塞」 丸亀城(1)

天守は三重三階。続櫓が接続していたようだ

(つづく。次回は11月18日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■丸亀城
https://www.marugame-castle.jp/

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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