城旅へようこそ

讃岐・阿波の国境! 秀吉も掌握した陸海交通の要衝 引田城(1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、11月15日に文化審議会が国史跡に指定するように文部科学大臣に答申した、引田城(ひけたじょう、香川県東かがわ市)です。瀬戸内海の軍事・流通の要衝だったこの城のふもとにある港は、ある理由から、とても重宝されたのです。

讃岐の東端、阿波との国境に

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引田城。石垣は生駒親正により築かれた

引田城のある香川県東かがわ市は、香川県の東端にあり、徳島県鳴門市に隣接している。つまり、香川県と徳島県の県境に位置し、かつては讃岐国と阿波国の境界にあった。聞けば、東かがわ市では徳島県の言葉で話す人も少なくないそうで、かつての国境地域らしい風習や文化が現在もあるようだ。

引田は、讃岐山脈の大坂峠を超えて引田に入る南海道が古代には通り、室町時代にも史料に記載が確認されるなど、東讃地方の流通で重要な場所だった。阿波と讃岐を結ぶ交通の拠点であったことは間違いない。また、瀬戸内海を通じて畿内へと通じる、海上交通の要衝でもあった。とくに、室町時代以降は社会経済の発達に伴い畿内へ産物が運搬されて、大いに発展した。

「風待ちの港」引田港

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「風待ちの港」と呼ばれる、穏やかな引田港

この引田港の存在なくして、引田は語れない。ちょうど引田城のふもとにある静かな入り江がその場所だ。時間が止まったように波が立たず静かなのは、北西の季節風が直撃しない地形にあるから。引田城が築かれた城山が瀬戸内海に突き出して壁となる。引田港は中世から播磨灘における「風待ちの港」として開かれ、戦国時代の天正年間(1573〜92)にはすでに町屋が並び、船着き場があったと推定されている。文化・文政時代(1804〜30)に砂糖の生産やしょうゆの醸造が盛んになると、豪商が軒を連ね大いに繁栄した。

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1753(宝暦3)年創業の老舗しょうゆ蔵「かめびし屋」

このように、主要街道が通る国境にあり、流通の拠点として最適な港湾があるとなれば、重要視されるのは当然だ。引田城の始まりは諸説あるが、室町時代には引田港をめぐって水軍を組織する国人がこぞって領有を狙ったともいわれている。戦国時代に入ると、元亀年間(1570〜73)には阿波の三好氏が攻め入り、阿波と東讃を結ぶ拠点として引田城を東讃支配の拠点とした。

長宗我部元親の讃岐侵攻が転機に

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城山(引田城)が壁となり風を遮っている

引田城の転機となるのが、土佐を統一した長宗我部元親の阿波・讃岐への侵攻だ。1582(天正10)年、東讃への攻撃が本格化すると、虎丸城(東かがわ市)の十河存保(そごうまさやす)が豊臣秀吉に救援を要請。元親は、秀吉に派遣された仙石秀久を1583(天正11)年の引田の戦いで破ったが、やがて秀吉の四国攻めにより降伏した。秀吉と元親の間に和議が成立すると四国は秀吉の支配下となり、長宗我部元親は土佐一国のみを安堵(あんど)され、讃岐には1585(天正13)年に仙石秀久が入った。阿波は蜂須賀家政、伊予は小早川隆景に与えられた。

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引田城からの眺望。大坂峠のほか、海の向こうには鳴門市も見える

秀吉が、秀久、家政、隆景を配置したのは、土佐の元親を牽制(けんせい)するためだろう。四国平定後の秀吉にとって、安定した支配を脅かすのは元親の存在だ。元親を土佐一国に封じ、隣接する国に家臣を配置したと思われる。引田城には、秀吉政権の権力を誇示し、土佐ににらみを利かせる重要な役割があったと思われる。

生駒親正が大改修に着手

ところが、わずか1年余りで仙石秀久は失脚。秀久に代わり、讃岐には1587(天正15)年、生駒親正が入った。この親正が、現在の引田城を築いた人物だ。堀尾吉晴や中村一氏とともに豊臣政権の三中老に任ぜられたとされる、秀吉に若い頃から仕えた大名で、高松城(高松市)や丸亀城(香川県丸亀市)を築城した人物としても名高い。

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善覚寺。引田城の城門を移築したと伝わる

親正は讃岐に入ると、すぐさま引田城の大改修に着手した。しかし、まもなく聖通寺城(香川県宇多津町)に移り、1588(天正16)年からは高松城を築いて領国の支配拠点にした。まず引田城に入り総石垣の立派な城へと大改修したのは、引田が讃岐と阿波を結ぶ接点で、畿内への海上ルートの窓口という重要な立地にあったからだろう。街道が通る国境にあるだけでなく、瀬戸内海を経由すれば秀吉のいる大坂城(大阪市)に近く、軍港としても物資の集散地としても理想的な引田港がある。つまり、中世以来の港があり、軍事行動を起こす際には畿内からの直結の位置にある絶好の場所。まさに陸海交通の要衝だ。

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阿波街道沿いに城下町が形成されていた江戸時代の面影が残る。

瀬戸内海の制海権をめぐっては、中世から攻防が繰り広げられていた。東瀬戸内海の制海権は、織田信長の命により秀吉が掌握を推し進めた成果だ。信長は石山本願寺との抗争において、大阪湾を掌握して制海権を拡張。明石・淡路・鳴門を結ぶライン、室津(兵庫県たつの市)・小豆島・引田を結ぶラインを形成させた。この一連の動きを担っていたのが秀吉で、もちろん秀吉の家臣である親正も深く関わっていた。

しかし、讃岐の支配拠点とするには、引田城は領国の東側に寄り過ぎていて都合が悪い。そこで親正は、高松城を築いて居城を移したのだろう。興味深いのは、高松城の築城を開始した後も、引田城の築城が継続していたとみられることだ。引田城が高松城築城開始までの1年ほどで完成したとは考えにくく、発掘調査や絵図からも、慶長年間(1596〜1615)に機能していたことが推察される。さらに、引田城からは高松城と同時期の築城を裏付ける同じ模様の瓦が発掘されている。

高松城、丸亀城、引田城のトライアングル

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引田港の堤防。江戸時代から昭和初期、城山の石を使ったと伝わる

注目したいのは、親正が1597(慶長2)年から西讃の押さえとして丸亀城を築いていることだ。引田城は、これに対する東讃の拠点として位置付けられていたのではないだろうか。高松城―丸亀城―引田城は、ちょうど讃岐国内でトライアングルのように結ばれる位置関係にある。おそらく引田城は丸亀城とともに、高松城を本城とする讃岐国内の支城体制を確立させる城だったのだ。

興味深いのは、1642(寛永19)年に松平頼重が初代高松藩主となった後も、引田が重要視されていたと思われることだ。1615(慶長20)年の一国一城令により引田城は廃城となったが、高松藩の記録を見ると、頼重が鹿狩りで何度も引田を訪れている。鹿狩りの記録が松平氏初期に多いことから、鹿狩りを名目として、外様大名となった阿波の蜂須賀氏を監視すべく訪れていたと考えられる。豊臣政権から徳川政権に移行し情勢が変わっても、引田は国境の地として緊張感が保たれていたようだ。その証拠に、1666(寛文6)年には城山に遠見番所が設置されている。

讃岐・阿波の国境! 秀吉も掌握した陸海交通の要衝 引田城(1)

引田城から望む瀬戸内海。約3キロ沖には通念島がある

(つづく。次回は12月2日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■引田城
https://www.higashikagawa.jp/itwinfo/i9360/ (東かがわ市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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