城旅へようこそ

秀吉政権の威容と技術が残る、壮大な総石垣の海城 引田城(2)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、生駒親正が築いた引田(ひけた)城の後編です。この城の最大の価値は、ある視点から見たときに、非常に貴重な例であること。どんな視点なのでしょうか。

<讃岐・阿波の国境!秀吉も掌握した陸海交通の要衝 引田城(1)>から続く

秀吉政権の威容と技術が残る、壮大な総石垣の海城 引田城(2)

引田城から見下ろす、引田港と城下町方面

<讃岐・阿波の国境!秀吉も掌握した陸海交通の要衝 引田城(1)>で述べた通り、引田城は1587(天正15)年から豊臣秀吉の家臣である生駒親正が築いた城だ。高松城(高松市)に居城を移した後も機能し、西讃の丸亀城と並ぶ東讃の拠点として、領国支配体制の一角を担ったとみられる。

引田城は、豊臣政権下の親正が、織田・豊臣系の築城技術を駆使してつくり上げた城だ。秀吉は城を政治的に活用し、家臣に支配拠点のシンボルとなる城を築かせることで、天下統一を推し進めた経緯がある。引田城は織豊系の城が家臣によって全国に伝播(でんぱ)した例として貴重で、ここに最大の価値がある。また、設計面の発達や石垣築造の技術向上を知る上でも、豊臣政権時代の城の姿が残る、全国で希少な城といえる。たとえば親正は同時期に高松城と丸亀城(香川県丸亀市)を築いているが、いずれも江戸時代に大改修され、親正時代の姿はほとんど残らない。一方で、引田城には親正が築いた城の姿がほぼそのまま残っているのだ。

引田城は、瀬戸内海に突き出した陸繋島(りくけいとう)の城山に築かれている。江戸時代初期の1640(寛永17)年に描かれた絵図を見ると、城の西側にある誉田八幡宮(宮山、現在の亀山)の東側に小海川が流れて海に注ぎ、引田城は島状に描かれている。しかし、江戸時代中期の1762(宝暦12)年に描かれた絵図では、陸続きになっている。どうやら、江戸時代中期に宮川(小海川)の土砂の堆積(たいせき)などによってつながったとみられる。かつてはの引田城は、瀬戸内海に浮かぶ壮大な海城だったようだ。

秀吉政権の威容と技術が残る、壮大な総石垣の海城 引田城(2)

かつては宮山(亀山)と城山の間には海が広がり、城下町は砂堆(さたい)にあった

引田城は城山のほぼ全域を取り込んで築かれ、城域は400メートル×300メートル以上に及ぶ。東側の谷筋を挟んで北東側の東の丸から南東側の本丸にかけて、2本の尾根筋にU字状に曲輪(くるわ)が配されている。南二の丸と北二の丸を中心とすれば、南東側に本丸、北東側に東の丸、さらに北側に派生する尾根上に北曲輪を置く構造だ。

登城口は二つあるが、いずれも大正時代末期に整備された遊歩道で、かつての登城道ではない。本来の大手道は、西のふもとから南二の丸と北二の丸の中間点に通じる道筋だ。ふもとには「玄関谷」と呼ばれる地区があり、家臣団の屋敷地があったと推定されている。大手道を登り切ると、南二の丸と北二の丸の間にある大手門に到達する。南二の丸と北二の丸の間に標高が低くなった鞍部(あんぶ)がみられ、ここが大手門跡と思われる。付近には鏡石と思われる巨石がいくつも残り、今でも門前の構えが感じられる。

秀吉政権の威容と技術が残る、壮大な総石垣の海城 引田城(2)

玄関谷方面。江戸時代には塩田が広がっていた

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大手門跡付近に残る石垣

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鞍部の大手門跡。かなり大きな門があったと考えられる

大手道の左右には、南二の丸から北二の丸まで約100メートルにも及ぶ石垣が続いていた。大手道を登り大手門までたどりつくと、延々と続く石垣が両手を広げるようにして目の前に立ちはだかる設計だ。現在はかなり崩されてしまっているが、かつては相当な威容だったろうと想像できる。大手門を抜けると南二の丸へ続く道筋と北二の丸へ通じる道筋へと分岐したようで、南二の丸を進むと本丸に至る。

本丸は、標高86メートルの東の丸に対して標高82メートルと最高所ではないが、この場所が本丸で間違いないだろう。複雑に折れ曲がり、外枡形虎口(そとますがたこぐち)もある。東側には天守台と推定される櫓(やぐら)台の石垣があり、やはり城内でもっとも主要な曲輪といえそうだ。何より、ここからの眺望のよさがこの曲輪の優位性を物語っている。引田の城下町から見上げたときにも、もっともよく見える場所にある。櫓台(天守台)の石垣は破却されたような痕跡があるが、高さは2メートルほどあったようだ。必見は南西側の石垣で、未発達の算木積み、石材の加工や積み方からもいかにも古いことがわかる。高さは3メートルほどだ。

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本丸。南東端に天守台がある

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隅角部の未発達な算木積みが状態よく残る、本丸南西側の石垣

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本丸南西側の石垣。城内でもっとも古い石垣とみられる

東の丸は上下2段から構成され、上段には櫓台らしき跡が確認されている。2004(平成16)年度の調査では鯱瓦(しゃちがわら)も発見されており、立派な建物が建っていたのかもしれないと想像が膨らむ。ここから谷筋に降りたところにあるのが、化粧池という巨大な水溜(みずだまり)だ。これほどまでに大規模な貯水池は、全国でも珍しい。籠城(ろうじょう)の構えなのだろうかと、築城時の社会背景に思いをはせるヒントになる。

ほかの曲輪と築城の時期差が感じられるのが、北曲輪だ。石垣がなく、横矢を掛ける折れなど技巧的な設計もみられない。おそらく、親正が城を大改修した際に、城域から外されたのだろう。親正による改変を免れた、戦国時代の引田城の一端かもしれない。

秀吉政権の威容と技術が残る、壮大な総石垣の海城 引田城(2)

化粧池を囲む石垣。大規模で手の込んだ貯水池だ

引田城の最大の見どころは、やはり北二の丸に上下2段に積まれた石垣だ。これを見ずして引田城は語れない。上段は高さ2〜3メートル、下段は高さ5〜6メートルの高石垣だ。とくに、折れを伴いながら累々と続く、下段の石垣は圧巻だ。豊臣政権の威光を示すべく築き上げられたであろう、軍事的な緊迫感と政治的な緊張感がひしひしと伝わってくる。秀吉のもとで最高峰の築城技術を磨いた、親正の技術力も感じられてたまらない。勾配は60度と直線的で、石材の隙間には間詰石という小石が丁寧に詰められている。鎬(しのぎ)積みと呼ばれる鈍角に折れる積み方も、築造年代の古い石垣にみられる特徴だ。

秀吉政権の威容と技術が残る、壮大な総石垣の海城 引田城(2)

必見の、北二の丸下段の石垣

(この項おわり。次回は12月9日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■引田城
https://www.higashikagawa.jp/itwinfo/i9360/ (東かがわ市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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