城旅へようこそ

「現存最古」でなくとも、それ以上の価値が 天守が解明された丸岡城(1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、北陸で唯一、江戸時代から残る「現存天守」がある丸岡城です。実はこの城の天守、従来言われた「現存最古」ではないと調査で結論づけられましたが、それ以上の価値が見つかったというのです。

学術調査で解き明かされた謎

「現存最古」でなくとも、それ以上の価値が 天守が解明された丸岡城(1)

北陸唯一の現存天守、丸岡城の天守


福井県坂井市にある丸岡城は、北陸で唯一、天守が江戸時代から残る城だ。2015〜18年度、坂井市教育委員会丸岡城国宝化推進室が本格的な学術調査をし、さまざまな謎が解き明かされて注目を集めている。大きな話題となったのが、天守の創建年代の判明。しかしそれだけでなく、建築様式や築城・改修の経緯、築城時や天守創建時の社会背景が再考され、丸岡城本来の価値も浮き彫りになってきた。城の研究に一石を投じるような成果も得られている。丸岡城の歴史とともに学術調査の概要と成果を追い、改めて丸岡城の価値に迫ってみよう。

「現存最古」でなくとも、それ以上の価値が 天守が解明された丸岡城(1)

天守南面。学術調査により、天守の創建年代が明らかになった

天正期に築城、寛永期に立藩

丸岡城は1576(天正4)年頃、柴田勝家の甥である柴田勝豊により、勝家の居城である北ノ庄城(福井市)の支城として築かれた。1576年にこの地を与えられた勝豊ははじめ豊原寺(福井県坂井市)に入ったが、1581(天正9)年には丸岡城へ移ったとみられる。文献に、1581年に丸岡城の名が確認される。

「現存最古」でなくとも、それ以上の価値が 天守が解明された丸岡城(1)

天守最上階からの眺望。グラウンドや平章小学校のあたりは、かつての二の丸にあたる

柴田氏の後は、丹羽長秀の家臣・青山氏、結城秀康の重臣・今村氏などを経て、1613(慶長18)年に本多成重が福井藩の付家老として4万石で城主となった。この本多成重が、丸岡城の歴史を語る上で重要な人物となる。成重が城主を務めていた1624(寛永元)年、福井藩から独立する形で丸岡藩が4万6300石で立藩したのだ。成重が丸岡藩の初代藩主となり、丸岡城の新たな歴史が刻まれていく。

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本光院境内にある、本多家の墓所

本多氏がお家騒動により改易となると、1695(元禄8)年からは有馬氏が5万石で城主となり、明治維新まで統治した。明治時代になると、丸岡城も全国の城と同様に廃城となり、天守以外の建物は取り壊され、堀は埋め立てられてしまった。天守は1948(昭和23)年6月28日に発生した福井地震により倒壊するも、1952(昭和27)年から4年がかりで再建修復工事がなされて現在に至る。

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丸岡城の内堀跡。城は五角形の内堀で囲まれていた

天守が「現存最古」と言われたわけ

これまで、丸岡城の天守は1576年に柴田勝豊が築城した頃の創建とされていた。1階と2・3階をつなぐ通し柱がなく下層と上層に構造的な一体性がないこと、掘立柱が用いられていること、石階段が直接天守の出入り口に通じるなど防御性が低いことなど、建築の構造様式が古式とされていたからだ。とくに、最上階に回縁がめぐる望楼型(ぼうろうがた)であることは古い天守の大きな特徴とされ、丸岡城の天守を古式と判断する決定打となっていた。柱や長押(なげし)が真壁造りになっていて、下見板や垂木などの軒まわりが塗籠にならず木肌が露出している点も、耐火性や防御性に対する配慮が感じられない。

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丸岡城天守の最上階。回縁がめぐる

姫路城(兵庫県姫路市)の天守は1609(慶長14)年の完成、松江城(松江市)の天守は1611(慶長16)年の完成、犬山城(愛知県犬山市)の天守は一重目と二重目が1601(慶長6)年、望楼部分は1618〜20(元和4〜6)年頃の増築と考えられている。1600(慶長5)年の関ヶ原合戦前の建造となると、松本城(長野県松本市)の乾小天守が1593〜94(文禄2〜3)年頃の建造とされるのみだ。よって、1576年頃の創建である丸岡城の天守は、現存最古の天守とされてきた。

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丸岡城の、回縁がめぐる望楼型の天守。石瓦も大きな特徴だ

しかし一方で、丸岡城天守の瓦には本多氏の家紋である三つ葉立葵紋が刻まれているほか、最上階が古式の三間四方の正方形ではないなどの新しい建築様式も見られる。1613年の絵図にも、天守の姿はない。このことから、本多成重が城主となった1613年以降の再建とする説もあり、創建年代が明らかになっていなかった。

判明した天守創建年代の意外性

今回の調査の結果、天守は現存最古ではない可能性が極めて高くなった。現存する天守は柴田氏時代の天正期ではなく、本多氏時代の寛永期に創建されていたと結論づけられたのだ。本多成重が城主を務め、丸岡藩が立藩した頃の創建と推定される。

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丸岡城天守の2階

柱や梁など主要構造材は、約7割が江戸時代と判明。福井地震で倒壊した際にほとんどが取り替えられたのでは、とも言われていたが、その点は否定された。

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天守の2階から3階への階段。狭間の位置が珍しい。今後、構造の解明にも期待

現存最古でなかったことに地元では落胆の声も上がったが、それ以上に、天守の創建年代が明らかになったことに意義がある。全国の城の歴史を考える上でも、大きな発見だ。というのも、一般的に1615(元和元)年の武家諸法度以降は城の改修や修繕にも幕府の厳しい規制がかかり、明石城(兵庫県明石市)や福山城(広島県福山市)、丸亀城(香川県丸亀市)など、江戸幕府が反対勢力の牽制などを理由に特例で認めた城を除けば、天守の新築はほぼないと考えられているからだ。寛永期に丸岡城の天守が造営されていた事実は、かなり興味深い。

キーマンは本多成重

なぜ、丸岡城の天守は寛永期に造営されたのか。キーマンとなるのは、城主の本多成重だろう。前述の通り、成重は福井藩2代藩主・松平忠直の後見役、付家老として家康から越前に派遣されている。付家老とは、江戸幕府の命令を受けて親藩大名の家老となったり、大名の本家から分家に対して派遣された家老のこと。成重は、幕府の中で特別な立場にあったのだ。そもそも、成重の父である本多重次は三河三奉行のひとりに数えられる家康の重臣であり、成重自身も幼少時、家康の次男・結城秀康(於義丸、初代福井藩主)が豊臣(羽柴)秀吉の養子となった際に大坂へ同行している。1623年に忠直が失脚したのを機に、福井藩から離れて初代丸岡藩主として独立した経緯がある。

「現存最古」でなくとも、それ以上の価値が 天守が解明された丸岡城(1)

防御性の低い出窓や古式の突き上げ戸も特徴

丸岡城天守の創建はちょうど丸岡藩が成立した時期と重なるが、全国の例をみると、必ずしも立藩を機に天守を築くわけではない。犬山城天守を増築した成瀬氏が、尾張藩の付家老だったことも興味深い。丸岡藩の成立と城の整備のかかわりは今のところはっきりわからないが、いずれにしても、丸岡城の天守が現在のように整備されたのは寛永期で、成重の存在と丸岡藩の成立が背景にあったことは間違いない。文献上、成重が天守を造営した記述はないが、成重による城の整備や天守の建設は十分にありえそうだ。

(つづく。次回は12月16日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■丸岡城
http://www.maruoka-kanko.org/400_special/010_castle/ (坂井市丸岡観光協会)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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