城旅へようこそ

築城の背景から探る、主君・信長の戦略と理念 丸岡城(2)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、北陸で唯一、江戸時代から残る「現存天守」がある丸岡城の後編。学術調査で次々に浮かび上がってきた、意外な城の姿とは。

<「現存最古」以上の価値とは?天守が解明された丸岡城(1)>から続く

昭和の解体修理報告書が学術調査の手がかりに

築城の背景から探る、主君・信長の戦略と理念 丸岡城(2)

学術調査が行われた、丸岡城の天守

坂井市教育委員会丸岡城国宝化推進室による丸岡城の学術調査は、建築史・建築構造・歴史学・考古学・美術工芸史などの専門家から構成される組織によって多面的かつ多角的に行われた。調査において大きな手がかりとなったのは、1940〜42(昭和15〜17)年に行われた解体修理工事報告書の記述と写真だ。1901(明治34)年の修繕工事以来の大規模な解体修理が行われており、その際に解体修理にあたった技術者、竹原吉助氏が撮影した166枚の写真と、竹原氏が書いた報告書が竹原家と福井県庁で見つかり、貴重な資料となった。

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笏谷石(しゃくだにいし)製の鯱(しゃち)。昭和の修理の際に木彫り銅版張りのものから差し替えられた。福井地震で落下した

かつては回縁はなく、腰屋根が

明らかになった寛永期天守は、二重三階の望楼型。現在のような回縁はなく、腰屋根がついていた。1644(正保元)年に幕府の命令により作製された「正保城絵図」にも、三重ながら腰屋根付きの天守が確認できる。丸岡城の天守を現存最古と判断する基準のひとつは、「回縁がめぐる望楼型であること」だったが、後の改修と判明したことで、定説を見直す必要も出てきた。

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天守最上階。現在はこの写真のように回縁がめぐっているが、かつては腰屋根がついていた

丸岡城の天守といえば、屋根に石瓦が葺(ふ)かれていることが大きな特徴だ。しかし、創建当初の屋根は薄板を重ねた杮(こけら)葺きだったこともわかった。石瓦の下に、杮が葺かれていたことが確認されたのだ。創建当初は杮葺きで、同じ本多氏時代に石瓦葺きに改修されたようだ。青い石は、福井市内の足羽山麓(さんろく)から産出した笏谷石(しゃくだにいし)。黄灰色の石は同じ凝灰岩だが、昭和の解体修理工事で取り替えられた石川県の滝ヶ原石だ。

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天守の石瓦。青い石は笏谷石、黄灰色の石は滝ヶ原石

懸魚に漆 まるで天下人の城

化学分析調査の結果、屋根の飾りである懸魚(げぎょ)と破風板には漆が塗られ、鯱(しゃち)には金箔(きんぱく)が押されていたことも明らかになった。漆の使用は安土城(滋賀県近江八幡市)や大坂城(大阪市)、駿府城(静岡市)、名古屋城(名古屋市)など天下人の天守に限定され、珍しい事例といえそうだ。構造上の特徴としては、天守にはわずかな床下空間があり、天守1階の東西中央列の柱はこれまで考えられていた掘立柱ではなく、床下空間に据えられた礎石の上に立っていたことがわかった。

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丸岡城天守の懸魚。かつては漆が塗られていたことがわかった

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懸魚は天守内部からも至近距離で見られる

自然科学的調査で絞り込んだ材の年代

今回の調査では、天守の創建年代を解明する方法として、「年輪年代法」「放射性炭素年代測定法」という自然科学的調査も導入されている。天守の柱や梁(はり)、床板などの古い材の年輪幅を調べたり、年輪に含まれている放射性炭素や酸素の含有量を化学的に分析して、材が伐採された年代を求める調査法だ。

年輪年代法は、年輪の数や幅の大小を測定し、年輪パターンの変化をグラフ化したものさしに照合することで、伐採年を求める方法だ。放射性炭素年代測定法を用いると、生物の生命活動の終了と同時に取り込まれなくなる放射性炭素(C14)の含有量から逆算することで、伐採年を求めることができる。これらの測定法により、材の伐採年は1623年+α、1620年+αなどに集中していた。さらに、湿度により変化する重さの違う酸素の含有率から年輪年代を測定する酸素同位体比年輪年代法によって、放射性炭素年代測定法で1623年+α年と測定された旧通し柱の最外年輪が、ほぼ1626(寛永3)年と割り出された。

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天守1階の柱。仕上げの工法なども詳細に調査された

信長流最新築城術を導入した可能性も

<「現存最古」以上の価値とは?天守が解明された丸岡城(1)>で述べたように、丸岡城天守の創建は、柴田勝豊が築城した天正期ではなく、寛永期だ。武家諸法度の公布後、福井藩付家老の本多成重が城主を務め、丸岡藩が立藩した頃と重なる点が興味深く、そこに丸岡城の本質と価値が見出せる。

一方で、天正期に丸岡城が築城された意義も価値あるものとして注目すべきところだろう。1576(天正4)年といえば、織田信長が安土城の築城を開始した年だ。全国の城に天守や石垣が導入されるのは信長の城がはじまりで、安土城は実質的にその代表例とされる。つまり、信長が開発した当時最新式の城を、近しい家臣の柴田勝家、その甥の勝豊が導入していた可能性が高いのだ。

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天守台。石材に矢穴が見られない。安土城と同じ、野面積みの石垣だ

築城の目的と経緯をたどると、丸岡城の価値がみえてくる。1575(天正3)年、越前の一向一揆を制圧した織田信長は、柴田勝家に越前8郡を与えて北ノ庄城(福井市)の築城を命じ、同時期に勝豊に豊原寺を与えている。豊原寺は、かつての一向一揆の拠点であり、信長が陣所とした場所だ。信長は北ノ庄城と豊原寺の両方を抑え北陸警護の拠点とし、くすぶる一向一揆の脅威に備えようとしたようだ。

豊原寺から丸岡城への移転は、越前の一向一揆を鎮定した後、加賀の一向一揆への防御と攻撃の拠点とすべく行われたと思われる。豊原寺と丸岡城は3キロほどしか離れていないが、立地の差は大きい。丸岡城は坂井平野を望む独立丘陵にあり、城を築くのにふさわしい好立地だ。豊原寺では、大規模で計画的な城や城下町の建設はかなわない。

1577〜1580(天正5〜8)年は、織田軍は加賀の一向一揆や上杉謙信との戦いを繰り広げ、加賀の軍事情勢は厳しかった。1577年8月には上杉謙信の能登への侵攻を受けて加賀へ出陣するも、9月には手取川で謙信に大敗を喫している。その後、加賀一向一揆との戦いが本格化する。こうした政治的・軍事的背景の中で、防備と攻撃態勢を強化すべく丸岡城は築かれたのだろう。

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天守最上階からの眺望。坂井平野を見渡せる好立地

天正期の丸岡城に天守があったかどうか、どのような姿だったかは今のところ知る術がない。しかし、現在の天守台は石材の加工痕などから1600(慶長5)年以前、柴田氏時代もしくは青山氏時代の築造である可能性が高いと推察されている。天守台だけを構築したとは考えにくく、おそらくは天守は建っていたのだろう。慶長期に描かれた「越前国絵図」にも、三重の天守が描かれている。

近年の発掘調査では、天守台の南面の地下から張り出し部の石垣が見つかり、少なくとも現在のような独立式ではない天守の構造が明らかになりつつある。今後の解明が楽しみだ。

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天守台南面。くぼんでいるところから、基底部につながる張り出し部の石垣が発掘された

また、今回確認された、天守台の床下空間も興味深い。2尺5寸(75センチ)ほどしかなく、姫路城(兵庫県姫路市)の天守のような穴蔵(地階)ではない。勝家や勝豊と同じく1576年ごろから信長の命令で金森長近が築いた越前大野城(福井県大野市)、1585(天正13)年から長近が改修した松倉城(岐阜県高山市)、1582(天正10)年以降に森氏が築いた美濃金山城(岐阜県可児市)でも、同じような地下空間が確認されている。類似例を含めて検討することで、柴田氏時代の丸岡城天守の姿が浮かび上がってくるかもしれない。

(この項おわり。次回は12月23日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■丸岡城
http://www.maruoka-kanko.org/400_special/010_castle/ (坂井市丸岡観光協会)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

「現存最古」でなくとも、それ以上の価値が 天守が解明された丸岡城(1)

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