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謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、19日に始まったばかりのNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公・明智光秀にゆかりがあるとされる明智城です。生まれた年も場所も定かではない、謎につつまれた光秀の前半生とは?

【動画】明智城を訪ねてみた

生まれ年も場所も謎の光秀

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

明智城の登城口

明智光秀が主人公の大河ドラマ「麒麟がくる」の放送がついにスタートした。光秀といえば、「敵は本能寺にあり!」と叫び、本能寺の変で信長を討った裏切り者というイメージが強い。しかし近年の研究では、優れた能力が評価され、人間性が見直されている。大河ドラマでどのような人物として描かれるのか、楽しみなところだ。

光秀に関する史料はほとんどなく、その前半生は謎に包まれている。出まれた年もはっきりせず、出生年には1516(永正13)年、1528(享禄元)年などいくつかの説がある。出生地は、美濃国(岐阜県)とするのが定説。岐阜県内でも可児市、恵那市、山県市、大垣市などいくつもの候補地があるが、大河ドラマでは現在の可児市にあたる明智荘の出身として描かれる。今回は、可児市の明智城を、光秀の前半生を追いながら紹介しよう。

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

明智城本丸の展望台から見渡す、明智荘

美濃で生まれ、明智城落城とともに脱出か

光秀は、美濃の守護・土岐氏の血を引く土岐明智氏の出身とされる。土岐氏は平安時代末期に始まる一族で、1333(元弘3)年に足利尊氏から土岐頼貞が初代美濃守護に任命された。定かではないが、土岐明智氏は足利将軍の直属である奉公衆だったという説もある。文献上に明智氏の名がはじめて登場するのは南北朝時代初期のことで、「あけちひこ九郎」の名が記された文書がある。この彦九郎頼重が明智家の土岐頼貞の孫にあたる。

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

土岐氏の城、大桑城(おおがじょう)の石垣

戦国時代、1542(天文11)年に斎藤道三が美濃の支配者になると、明智氏は道三に従っていた。しかし、道三と嫡男の義龍が対立し、1556(弘治2)年の長良川の戦いで道三が討ち死に。明智氏はどちらにもつかず中立な立場を取ったようだが、義龍に居城の明智城を攻められた。江戸時代に書かれた「明智軍記」によれば、光秀はこの動乱後に浪人になったとあり、義龍に攻められ落城した明智城から逃亡して生き延びたとみられる。

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

岐阜城から道三が隠居後に在城した鷺山城(さぎやまじょう)を望む。右側のこんもりとした山が鷺山城

不遇の越前暮らし経て、信長と義昭の仲介者として躍進

「明智軍記」には、1562(永禄5)年に、光秀が越前長崎の称念寺(福井県坂井市)の住職と和歌を詠み、漢詩をつくったと記載されている。称念寺は母・お牧の方とゆかりがあり、光秀は妻の煕子(ひろこ)とここへ逃れ、門前で10年ほど暮らしたようだ。越前朝倉氏の家臣との連歌の会を機に、戦国大名の朝倉義景への仕官がかなったという。暮らしは貧しく、連歌の会の資金は煕子が自慢の黒髪を売って捻出したという逸話がある。

文献上ではっきりと光秀の名前を確認できるのは、信長が京都へ上洛した1568(永禄11)年ごろだ。1567〜68(永禄10〜11)年頃に作成された室町幕府に従う幕臣の一覧に、足利義昭に仕える足軽衆として記載されている。光秀は、義景に仕え、義景を頼って都から亡命してきた義昭の側近となったようだ。1568年、義昭は光秀の勧めで信長とともに上洛を果たして室町幕府15代将軍に就任する。義昭が信長のいる美濃へ移る際に光秀も同行していたとみられ、義昭と信長の間をとりもつ連絡役として行動していたようだ。仲介役としての働きが信長に認められ、その後の躍進につながっていく。

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一乗谷朝倉氏遺跡。ふもとに居館と城下町、背後に一乗谷城があった

明智荘は光秀誕生地の説も

さて、光秀の出生地とされる明智荘に話を戻そう。一説では光秀は1528年前後に明智荘で誕生したとされ、江戸時代に編纂(へんさん)された美濃国内の名家、豪族、戦、城、郡、村、寺社などを記した史書「美濃国諸旧記」によれば、父は明智城主の明智光綱とされる。明智荘は、東海環状自動車道「可児御嵩」インターチェンジを降りてすぐのあたりで、「美濃国諸旧記」では、土岐明智発祥の地で、代々住んだとされる。

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

明智城に建つ石碑

「美濃国諸旧記」によれば、1342(康永元)年に土岐頼兼が築城し、土岐明智氏の200年間の居城とされたのが明智城だ。文献上は明智城ではなく「長山城」と記載され、そのため明智城は明智長山城とも呼ばれる。

明智荘を見下ろす長山に築かれた城

現在の明智城へは、山麓(さんろく)の桔梗坂(ききょうざか)から登る。登城道の入り口には、冠木門が建てられている。曲輪とおぼしき平坦地(へいたんち)がいくつかあり、本丸や二の丸、馬場などの表記がされているが、残念ながら曲輪(くるわ)とするには疑わしいところもあり、それ以外の明確な城の遺構が見いだせない。少なくとも現況から、明智城=「美濃国諸旧記」に記された土岐明智氏の長山城、とするには疑問が残りそうだ。ただし、山麓には寺院が点在し、「東屋敷」「大屋敷」など中心地を連想させる地名が残るため、なんらかの城はあった可能性はある。

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

明智城の登城道につくられた桔梗坂

可児市に隣接し、明智荘の範囲内にある御嵩町には顔戸城(ごうどじょう)という城があり、地元の郷土史家の間では、顔戸城こそが記載された長山城なのでは、という説もあるようだ。室町時代の美濃守護代、斎藤妙椿(みょうちん)が築いた城とされ、深い空堀と土塁がよく残る、かなり広大で立派な平城だ。


謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

御嵩町にある顔戸城

「日本一大きい」と言われる光秀の位牌

明智城の北側にある天龍寺は、毎年6月に光秀の供養祭を行う、明智一族に関わりが深い寺として知られている。6尺1寸3分(約185センチ)にも及ぶ、日本一大きな明智光秀の位牌がまつられ、明智氏歴代の墓所もある。

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

天龍寺にある明智氏歴代の墓所

2020年1月11日には、可児市内の花フェスタ記念公園に「麒麟がくる ぎふ可児 大河ドラマ館」が開館した。光秀の生涯を約80枚のパネルで紹介した企画展「明智光秀物語」も同時開催中だ。光秀の前半生は謎ばかりではあるが、ゆかりの地のひとつを実際に訪れれば、より大河ドラマが楽しめそうだ。

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

岐阜県可児市の東栄寺。明智一族の菩提寺だったことがあると伝わる

(おわり。次回は1月27日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■明智城
http://kani-sengoku.jp/castle/akechi-castle/(可児市PRサイト)

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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