城旅へようこそ

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、19日に始まったばかりのNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公・明智光秀の生誕地と伝わる岐阜県恵那市の落合砦(とりで)です。近くの明知城ともども戦略上の拠点でした。その理由は、砦から周囲を見渡すと、一目でわかるほどです。(トップ写真は明知城の登城口)

【動画】明智の町を見下ろす落合砦

<謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城>から続く

明智光秀生誕地と伝わる落合砦

明智光秀の出生地には、<謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城>で紹介した明智荘のほかにも候補がある。そのひとつが、恵那郡(現在の岐阜県恵那市、中津川市、瑞浪市の一部)の遠山荘だ。恵那市明智町にある明知遠山氏ゆかりの明知城は、明知鉄道の明智駅が最寄り駅。ここまで「あけち」づくしとなれば、光秀ゆかりの地として訪れてみたくもなるだろう。明智町では、光秀生誕の地として毎年「光秀まつり」を開催。2020年1月11日には、明知城山麓(さんろく)の明知陣屋跡に建つ大正ロマン館に「麒麟がくる ぎふ恵那 大河ドラマ館」が開館している。

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

「麒麟がくる ぎふ恵那 大河ドラマ館」

光秀の生誕地と語り継がれるのは、明知城南西の高台にある落合砦だ。土岐明智城、多羅砦とも呼ばれる。

1247(宝治元)年に明知城が築城された頃に築かれたとされ、千畳敷跡に「明智光秀産湯の井戸」がある。残念ながら光秀との関係は立証されていないが、それはさておき、明知城と連動する戦略上の拠点ではあったのだろう。千畳敷とは屋敷内の部屋のことで、この場所に明知遠山氏に関連する屋敷があったのかもしれない。

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

落合砦(千畳敷公園)の千畳敷跡にある「明智光秀産湯の井戸」

落合砦は、最高所に主郭(本丸)、北側の出丸、その間の千畳敷跡にある鞍部(あんぶ)で構成されている。グラウンドや公園整備によりだいぶ改変されてしまっているが、主郭の南東側や南西側には曲輪(くるわ)が派生し、よく見ると削り込まれた切岸もよく残っている。北側には堀切らしき痕跡も確認できた。出丸の西側も、帯曲輪が取り巻いていたようだ。

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

落合砦の主郭と西側の切岸

街道が結節する交通の要衝

出丸からの景色が、落合砦が築かれた意義と、明智の地の重要性を教えてくれる。東には、明知城とそれに連動していたと思われる仲深山砦が見え、万ケ洞と呼ばれる谷筋には、信濃の塩尻へと通じる中馬街道が見通せる。眼下に広がる盆地では、中馬街道と南北街道が交差。中馬街道は、東は信濃、西は尾張へ通じ、南北街道は、北は中山道、南は奥三河を経由して岡崎に通じていた。江戸時代に道筋は変わっているものの、この場所が信濃・三河・尾張に通じる結節点であり、盆地の出入り口で街道を押さえられる要地だったことは察しがつく。落合砦は、明知城をはじめ近隣の各城と呼応する出城のような存在だったのだろう。

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

落合砦の出丸からの眺望。左が明知城、右が仲深山砦。間の谷筋を通る中馬街道は信濃に通じる

出丸からは、北東に武田勝頼が陣を置いたとされる一夜城、北西に織田信長が陣を置いたとされる鶴岡山陣城(諏訪ケ峯砦)が見える。まさに、武田・織田の二大勢力が盆地を挟んで至近距離で対峙(たいじ)した緊迫感を、この砦から俯瞰(ふかん)することができるのだ。戦国時代の東美濃は、城をめぐる攻防がおもしろい。明知城をより楽しむためにも、東美濃の戦国史を知っておくといいだろう。

東美濃「遠山七頭」の拠点

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

一夜城、鶴岡山陣城(諏訪ケ峯砦)を一望。織田、武田両軍が盆地を挟んで対峙したことがわかる

1530〜40年ごろ、東美濃では、岩村城(岐阜県恵那市)の岩村遠山氏や明知城の明知遠山氏、小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)の小里氏、妻木城(岐阜県土岐市)の妻木氏など、国衆と呼ばれる有力者が支配していた。遠山荘では、岩村遠山氏が遠山七頭(明知遠山氏、苗木遠山氏、串原遠山氏など)を統括して東美濃の最大の勢力となっていた。

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

小里城。小里氏は土岐氏を祖とする説も

東美濃は東に信濃が隣接するため、武田信玄が信濃の伊那を制圧すると、国衆は脅威にさらされた。とりわけ、国境に近い岩村城は緊張感が高まったことだろう。東美濃は、南に三河が隣接するため、1555(天文24)年に三河の今川勢に明知城を攻められたという。この際、岩村遠山氏の岩村景前が信玄に助けを求めたのを機に、遠山荘は武田支配下となったとみられている。

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

岩村城。石垣は江戸時代以降に積まれたもの

血で血を洗う争奪戦

信玄が東美濃を橋頭堡(きょうとうほ)として三河の徳川家康領へ向けて侵攻を開始すると、徳川と同盟を結ぶ織田信長と武田との同盟も崩壊。信長が、東美濃へ侵攻してきた。以後、東美濃では武田vs.織田の熾烈(しれつ)な戦いが繰り広げられることとなる。

1571(元亀2)年、岩村城主の遠山景任が病死すると、景任の妻が叔母であった信長は、すぐさま自分の四男(五男の説も)の御坊丸を岩村城に入れ、苗木城主遠山直廉が跡継ぎのないまま死去すると、飯羽間遠山氏の遠山友勝を城主に送り込んだ。後に岩村城だけが武田方に転じたが、東美濃は武田支配下から織田支配下となった。

岩村城の奪取だけに留まった武田が、ここでおとなしくなるはずはない。1574(天正2)年1月、前年に信玄から家督を継いだ武田勝頼は、織田・徳川との戦いを再開し、遠山領を奪還すべく攻めてきた。信玄は自身の死を3年伏せるように遺言したというが、勝頼は年が明けるとすぐに岩村城に兵を進め、明知城、串原城(岐阜県恵那市)、阿寺城(岐阜県中津川市)へ同時に攻め入ったという。明知城も最大のピンチを迎え、約10日間の籠城(ろうじょう)の末に落城。遠山荘は再び武田支配下となったのだった。

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

明知城。コンパクトだが見ごたえがある

これに対して、再び1575(天正3)年5月に信長が反撃する。長篠の戦いで勝頼に大勝すると、弱体化した武田勢を一気に叩くべく、嫡男の信忠を総大将として岩村城を囲んだのだ。5カ月の籠城戦と2度の戦闘の末に、岩村城は11月に降伏。武田方として城内にこもった遠山一族は、信忠により徹底的に処罰されたといわれている。以後、岩村城には信長配下の河尻秀隆が入り、1582(天正10)年の武田氏滅亡まで、対武田の最前線として機能した。

武田vs.織田の東美濃争奪戦! 落合砦・明知城・仲深山砦 ①

岩村城の標高は717メートル。かなり高いところにあるのがわかる

1582年3月に武田氏が滅亡し、6月に本能寺の変で信長が没すると、清洲会議により美濃は信長の三男である信孝の領地となったが、やがて失脚。その後は森長可(ながよし)が美濃三郡を領有した。武力で制圧を押し進めた長可に追われ、東美濃の諸将は家康を頼って三河へ。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いで、東美濃の諸将は再び長可と衝突し明知城や小里城を奪還したが、戦いが終息すると東美濃三郡は森領と決まり、東美濃の諸将は再び東美濃を去ったのだった。
(つづく。次回は2月3日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■落合砦
https://akechi-mitsuhide.jp/higashimino-castles/ochiai-toride-fort/ (恵那市)

■明知城
https://akechi-mitsuhide.jp/higashimino-castles/akechi-jo-castle/(恵那市)

■岩村城
http://hot-iwamura.com/pickup/%E5%B2%A9%E6%9D%91%E5%9F%8E%E8%B7%A1(城下町ホットいわむら)

■苗木城
http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/kankou/spot/2018/03/100-432m-360-93017001630122715-320.html(中津川市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

謎に包まれた明智光秀の前半生と、明智城

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