城旅へようこそ

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、またひとつ姿を消す戦国時代の山城を紹介します。神奈川県山北町の河村新城です。新東名高速道路の建設に伴い、いずれ山ごと消滅しますが、2018年12月から全面的な発掘調査を実施中で、見事な戦国時代の城が400年以上の時を経て姿を現しました。2019年12月3日に取材した様子をリポートします。(トップ写真は発掘調査で姿を見せた河村新城)

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思わず驚きの声をあげた見事さ

驚くべき城が姿を見せ始めていて、思わず感嘆の声をあげてしまった。取材時は、城の中心となる山頂の曲輪(くるわ=主郭)を中心に、城の一部が姿を現しただけなのだが、それでもかなりつくり込まれた防御性の高い城だと確信できた。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

主郭西側の尾根、北側斜面の竪堀

この場所が、これほど見事な城が築かれた意義を教えてくれる。河村新城があるのは、神奈川県の最西端、車を10分も走らせれば静岡県小山町に入る県境付近だ。つまり、かつての相模と駿河との国境にかなり近い。直線距離で約10キロのところにあるのは、神奈川・山梨・静岡の県境となる三国山。甲斐も含めた三国の国境に位置する城なのである。

河村新城がたびたび文献に登場するのは、1582(天正10)年以降だ。甲斐の武田氏が滅亡すると、武田氏の旧領をめぐって相模の北条氏は徳川氏と争った。築城時期は定かではないが、北条氏の城として重要な役割を担っていたと思われる。

実はこれまで、文献に記載される河村新城が本当にこの城のことなのかはっきりしていなかった。堆積土(たいせきど)の上に木々が生い茂っていたため大した遺構が確認できず、最前線の城とするには疑問の声があったのだ。近隣の河村城を改修したのが河村新城ではないか、との専門家の意見もあったが、今回の発掘調査で見事なまでの城が姿を現し、議論の余地はなくなった。間違いなく、この城が河村新城だろう。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

主郭北側の一段下にある曲輪

戦国時代でなくても押さえたくなる立地

それにしても、戦国時代でなくとも押さえておきたいような立地だ。城は、相模と駿河の国境である不老山から派生する山稜の東端部、標高347メートルの城山にある。西丹沢山地から南へ流れる河内川(かわちがわ)と、小山町から東へと流れる鮎沢川(あゆさわがわ)が合流して酒匂川(さかわがわ)となる結節点にあたり、東を河内川、南を鮎沢川、北を塩沢川に守られた立地だ。現在は河川の合流点に突き出すような独立した丘陵になっているが、かつては駿河との国境となる谷ケ山(525メートル)まで尾根続きで、そこから尾根伝いに南下し、現在の駿河小山駅近くにある生土城(いきどじょう)などに通じる御厨古道(みくりやこどう)が通っていたという。

今回の調査でも、駿河方面に通じる御厨古道と思われる道筋が確認された。西側の曲輪の西端から城内に引き込まれるかのように通じており、河村新城は御厨古道を内包するような構造だったようだ。街道を取り込む城のつくり方は北条氏の城でよく見られる特徴のひとつでもあり、北条氏の城らしさを感じた。河村新城は南東側に居館を構えていたとされ、茶畑になっている一帯に曲輪が広がっていたようだ。山頂部との連動性、構築時期の違いなども興味深い。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

主郭直下をめぐる長大な横堀。障子堀になっている

甲斐方面の監視、そして「小田原攻め」への対応

城は、主郭と思われる最高所の曲輪を中心とする。主郭北側の一段下にも曲輪があり、それらを取り囲むように、長大な横堀がめぐっている。北側からの敵を寄せつけまいとする、威圧感ある横堀だ。巧みに折れを伴い、北条氏の城によく見られる、障壁が掘り残された障子堀だ。主郭の西側直下まで続いていたようで、かなり長大な障子堀だったらしい。障子堀といえば、北条氏が築いた山中城(静岡県三島市)が有名だが、それを彷彿(ほうふつ)させるか、もしくはそれ以上のダイナミックさに驚く。北側に向けられた強い防御の意識は、甲斐方面の警戒にほかならない。主郭からは河内川がかなり先まで見通せ、甲斐方面を監視していたのがわかる。

ただし、城全体を歩いてみると、この城の防御の意識は北側だけに向いているのではないと感じた。北条氏は1590(天正18)年に豊臣秀吉による小田原攻めで滅亡するが、それに備えて1587(天正15)年頃から領国内の城を強化している。山中城や足柄城(静岡県小山町・神奈川県南足柄市)も改修の痕跡が見られ、立地を考えれば河村新城も最前線として重要視されたことだろう。文献では、足柄城と河村新城の間の往来を禁じていたことが確認できるという。河村新城も臨戦態勢だったはずで、至る方向に目配りしていたようだ。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

主郭から見渡す甲斐方面。河内川が見通せる

主郭からは二つの掘立柱建物跡が確認され、北側の1段下の曲輪にも、建物跡が確認されている。主郭のひとつは、庇(ひさし)か縁側のある建物が推察される。何度も建て替えられた痕跡が見られず、出土した遺物は16世紀後半と思われるものが集中していることからも、特定の時期に建てられた可能性が高いという。

主郭を中心に城域全体からは、皿やすり鉢、つぼなど陶磁器のほか、かわらけが出土。文献に「腰兵糧」と記載される兵の携帯食と思われる米や麦のほか、魚の骨らしきものも見つかったという。出土遺物は16世紀前半のものもあるが、16世紀後半のものが多く、河村新城が使われていたとされる時期と一致する。また、直径11ミリの青銅製とみられる銃弾も出土しており、鉄砲が出現した戦国時代に城が機能していたことが推察される。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

主郭西側の切岸。堀底まで高さは約12メートルもあり圧巻

城全体を見て感じたのは、支配拠点となる恒久的な城ではないけれど、かなりしっかりした造りであることだ。排水のしくみも城内の数カ所で確認でき、ある程度の期間滞在できるよう、つくり込まれている印象を受けた。

大きなインパクトを放っていたのが、主郭西側の巨大な堀切だ。主郭の切岸はかなり削り込まれ、急崖をなしている。堀の深さは約12メートルもあり、曲輪の上から堀底をのぞき込めば足がすくむほどである。西側から攻め上っていた敵も、壁のようなこの切岸を突破しようとは思わないだろう。堀切の底にも規則的かつ段差をつけた障壁があり、緻密(ちみつ)な設計がうかがえる。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

主郭西側の堀切。障子堀になっている

北条氏の城は設計や造成にいいかげんなところがなく、かなり緻密で繊細な印象がある。障壁は等間隔に設置され、段差や折れに規格性がある。端部の処理も、美しさを感じるほど造成が丁寧だ。掘りながら考えるのではなく、設計から作業指示まで綿密に行われていたと思われる。文献からも、北条氏が細やかに築城の状況や問題点を把握し、指示していたことが確認できるという。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

土橋。掘立柱穴が発掘されている

もっとも驚愕(きょうがく)したのは、西側の曲輪をつなぐ土橋と、その北側に設けられた障子堀と竪堀だ。土橋は幅3メートル、長さは5メートルほど。土橋上にいくつもの掘立柱跡が見つかっている。これほど細い通路上に、門が設けられていたのだろうか。西側は御厨古道に通じ、ここが街道と城との結節点。城の搦手(からめて=裏手)だったと考えられる。

土橋の下の堀の穿(うが)ち方もたまらない。土橋直下は、横から見るとV字になっている。まるで芸術作品をつくったかのような、北条氏らしい几帳面な城づくりがここでも感じられる。土木量にも、改めて驚く。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

障子堀をふさぐように、土橋がかかる

土橋の北側直下も、執拗(しつよう)につくり込まれていた。土橋から落ちたらひとたまりもないだろうと思わせるほど、6〜7メートル斜面が鋭く削り込まれ、障子堀がめぐる。障壁は、発掘作業員がはしごを使ってよじ登るのも一苦労するほどの規模だ。さらに、北側斜面に向かって竪堀も設けるという合わせ技で、思わず感嘆の声を上げてしまった。北側斜面への、恐ろしいまでの徹底した意識を感じる。

こうなると、北側の斜面の構造が気になるところで、調査の続報が待ち遠しい。斜面にはかなりの土が堆積し、その下に曲輪があると推測される。かなり収容人数の多そうな城だ。現在見えている黒い火山灰は、1707(宝永4)年にあった富士山の「宝永大噴火」の火山灰。ローム層まで削り込んで曲輪を造成し、堆積した土の上に火山灰が層を成しているという。場所によるが、地山から火山灰までは深いところで1.5メートルあるそうだ。

消滅を前に現れた山城! 障子堀めぐる圧巻の河村新城

土橋の北側。障壁を伴う横堀がめぐり、斜面には巨大な竪堀が掘られている

前述の通り発掘調査は続行中で、現在は調査範囲が北側斜面に拡張されている。出土遺物の検証や調査からの検討もこれからだ。全容の解明はまだ先になるが、いずれにしても、400年以上の時を経て歴史を伝えてくれる貴重な歴史の産物、しかも同時期の城と比較しても巧妙な城が、開発のなかで失われてしまうのが惜しくてならない。少なくとも、今見えている姿はすべて削られ、失われてしまう。南山城の事例<440年の眠りから覚め、まもなく消える南山城>と同様に、全面的な発掘調査は消滅が前提なのは皮肉なことだ。せめて、歴史を解明する貴重な記録として、また多くの人々の記憶に残されていくことを願う。

※発掘調査現場は立ち入り禁止で見学はできません。特別な許可を受けて取材しました。

(この項おわり。次回は2月17日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■河村新城
http://www.kaf.or.jp/(かながわ考古学財団)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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