城旅へようこそ

織田信長軍が改築した「付城」が出現!  消滅が惜しまれる神戸・松原城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回も、姿を消す戦国時代の山城を紹介します。神戸市北区の松原城です。2020年1月で、宅地開発工事に伴う約1年間の発掘調査が終了しました。2019年の9月20日と12月26日に取材した調査概要をリポートします。(トップ写真は2019年12月26日撮影)

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織田信長軍の改変、発掘でほぼ確実に

松原城は、神戸電鉄の神鉄道場駅前にある、比高25メートルほどの独立した丘陵に築かれた小さな山城だ。地元では蒲公英(たんぽぽ)城と呼ばれ、「信長公記(しんちょうこうき)」では道場川原城と記される。「信長公記」の記載以外の文献では確認されていない謎めいた城だが、南北朝時代に三田城(兵庫県三田市)の支城として播磨守護・赤松氏の一族が築き、15世紀後半に赤松氏の流れをくむ松原氏が城主となって以後、戦国時代末期まで存在したと伝わる。近世以降に神社や民家が建てられ改変されたものの、土塁や堀切など戦国時代の城の姿が残る城として知られていた。

「信長公記」には、1578(天正6)年に織田信長に反旗を翻した荒木村重方の三田城を攻めるため、羽柴秀吉が道場河原に付城(つけじろ)を築いた、という内容の記述がある。「付城(陣城)」とは、戦いの際に臨時で築かれる前線基地のこと。つまり、秀吉が築いた臨時の城こそ、この松原城ではないかと考えられるのだ。発掘調査の結果、松原城は織田方により改変され、三田城攻めの付城として機能したことがほぼ確実となった。

最前線を背後から援護する付城か

なぜ、この松原城が付城として改変されたのか――。城からの眺望に、その理由を考えるヒントがあった。松原城は、有野川と有間川が合流する地点のすぐ西側にある。注目すべきは、城の東側直下を丹波街道が通ることだ。丹波街道は大坂から日本海に抜ける主要な街道で、城の北側には播磨方面に向かう街道の分岐点がある。松原城は両方の街道が見える独立丘陵であり、陸上・河川の両交通に恵まれた立地だ。戦いにおいて重宝されるのは必然といえよう。

ただし、松原城からは丘陵が目隠しとなって三田城は見えない。松原城から三田城までの間には、横山城や宅原城、立石城など、信長方の付城と思われる城がいくつか確認されている。松原城は最前線の付城ではなく、それらの付城を背後で援護する付城だったのではないだろうか。交通の利便性を考えれば兵站(へいたん)の運搬に最適で、前線が突破された場合は戦いの場にもなる。播磨方面に通じる街道もあることを考えると、同時期に織田軍が標的としていた三木城(兵庫県三木市)攻めの補給基地として機能していた可能性も考えられる。

織田信長軍が改築した「付城」が出現!  消滅が惜しまれる神戸・松原城

曲輪(くるわ)1から見る曲輪2(上段)と曲輪4(下段)。曲輪4の直下を丹波街道が走る(2019年9月20日撮影)

城は、最高所にあたる東側の曲輪1と西側の曲輪2の、東西2つの曲輪を中心として、斜面にいくつかの腰曲輪を置く。決して大きな城ではないが、よく見ると各曲輪直下は削り込まれ、戦闘性を感じる。2019年9月の取材時には、曲輪2は南西〜東側の三方向を高い土塁で囲んだ、北側への防御を強く意識した構造と判明していた。北側の土塁は高さ約3メートルにも及び、北西辺の頂部や南西辺の斜面には10〜20センチ大の礫(れき)も発見されていた。

急ぎの大改修、発掘から浮かぶ

織田信長軍が改築した「付城」が出現!  消滅が惜しまれる神戸・松原城

曲輪2、北西側の土塁。左が改修前の下層の土塁、右が改修後の土塁。土層転写作業中のため白い布が貼られている(2019年12月26日撮影)

その後の調査で、三方向を囲む土塁の構築方法の違いが明らかになった。驚いたのは北西側の土塁で、改修前後の2層を確認。改修前には60センチほどだった土塁の上に、かなりの土を盛って1.5メートルにも及ぶ高く分厚い土塁を構築していた。下層の土塁が内側に石積みを伴う丁寧なつくりなのに対して、上層の土塁内部に石が詰まっており、曲輪や堀切を削り込んだ土をそのまま一気に盛り上げた様子だ。織田軍が付城として、急ぎ大改修した痕跡なのだろう。南西側の土塁内部には石が見られず、斜面に土を盛って曲輪を広げ、その上に土塁を築いていたという。

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曲輪2、北西側の土塁。上層部には石が詰まっている(2019年12月26日撮影)

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曲輪2、南西側の土塁(2019年12月26日撮影)

北西側の土塁に沿って見つかった石敷きの遺構は、信長が築いた小牧山城(愛知県小牧市)で発掘された遺構を連想させ興味深かったが、9月以降の調査で、石敷きの下層からさらに石敷きが発見され、礎石建物に付随した雨落ち溝の可能性が指摘されている。後世の改変により登城道は定かではないが、曲輪2の南側には虎口とみられる石列を確認した。

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北西側の土塁に沿った石敷き遺構(2019年9月20日撮影)

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曲輪2南側の、虎口とみられる石列(2019年9月20日撮影)

直下に街道を見下ろす曲輪も

もっとも驚いたのは、曲輪2の北東斜面に設けられた、四つの腰曲輪だ。中でも最大の曲輪4は、見るからに街道を直下に見下ろす基地。出土遺物からも、兵が駐屯する武者だまりだったと推察されている。凝灰質砂岩の岩盤を削り込んで急斜面の切岸をつくり、東端には東側の曲輪から続く土塁が残存。曲輪4の西側には2メートル高いところに曲輪5が置かれ、曲輪4への侵入を防ぐ迎撃の基点とみられる。

全体的に、折れをつけて側面からいかに攻撃するかという発想ではなく、曲輪の面積を効率的に広く確保することを意識している印象を強く受けた。その直感を裏付けるかのように、曲輪4の東側にも曲輪14が見つかり、その下の斜面にも2段の曲輪が続いていたことがわかっている。

曲輪1と曲輪2の間に掘り込まれた巨大な堀切も興味深いつくりだ。堀底の幅は約2〜3メートル、曲輪2の土塁上までは約4メートルの高さがある。堀切の北端からは、曲輪1を囲むようにして曲輪14との間に横堀がめぐっていた。北端は両側面に石を積んでふさがれていたことから、改修がうかがえる。堀底は岩盤を削って逆台形に整地してあり、どうやらこの城では堀底を通路として使用していたようだ。ただし、南端からは通路は見つからず、曲輪間の接続は明らかになっていない。

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曲輪1と曲輪2の間の、巨大な堀切(2019年12月26日撮影)

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堀切は石を積んだ盛り土でふさがれていることがわかる(2019年9月20日撮影)

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曲輪1の北西側にある土塁。石敷き遺構も確認されたが、近世以降の改変が多く詳細は不明(2019年12月26日撮影)

このように、松原城は在地領主の城としては手が込んでおり、規模も大きい。三田城側を意識した土塁や、街道を意識した腰曲輪の配置、緻密(ちみつ)な曲輪間の連携などを考えると、松原氏の城を織田軍が大改修したと考えるのが妥当だろう。「信長公記」に登場する織田軍の付城が発掘調査により確認された例は全国的にも希少で、戦国時代の緊迫した情勢下で改変の段階が解き明かされたことも貴重だ。

残念なことに城は丘陵ごと消滅するが、今後の研究に大きな成果となりそうだ。調査を通して新たな発見が続き、これまでの見解と異なる報告もあるだろう。貴重な成果を、全国の城の調査や整備に生かしてほしい。

※発掘調査及び現地説明会は2020年1月で終了しました。見学はできません。

(この項おわり。次回は3月2日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■神戸市教育委員会文化財課
https://www.city.kobe.lg.jp/a21651/kanko/bunka/bunkazai/estate/gensetu/index.html

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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信長軍の標的に、江戸時代は九鬼家の城 兵庫県・三田城

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