城旅へようこそ

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、現在の岐阜県山県市にある戦国時代の山城、大桑城(おおがじょう)です。美濃国の守護だった土岐氏最後の城ですが、とても特殊な造りをしているのです。
(トップ写真は山頂部に造られたミニチュアサイズの模擬天守)

【動画】大桑城を歩いてみた

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土岐氏内紛の渦中、守護所になった城

大桑城は、美濃守護の土岐氏が守護所を置いた城だ。NHKの大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」でも登場した土岐氏は、清和源氏で美濃源氏の嫡流とされる名門の一族。室町時代には幕府と強いつながりを持ち、守護・守護大名として支配を固めていた。

それまでの枝広館(えだひろやかた、岐阜市)から大桑城へと守護所が移されたのは、1535(天文4)年ごろとされる。土岐氏はこの頃、家督争いの渦中にあった。土岐政房が長男の頼武(よりたけ)ではなく次男の頼芸(よりのり)を支持したことを機に、家臣を巻き込んだ内紛へと発展。1518(永正15)年、頼武は同盟関係にあった越前・朝倉氏のもとへ逃れたが、やがて美濃に返り咲き政権を維持。しかし1525(大永5)年には再び頼芸が美濃の守護所を占拠した。この後も朝倉氏や近江・六角氏の加勢を得た頼武・頼純と頼芸の対立は激化し、戦火は美濃全域へと拡大。この一連の動きの中で、頼武が越前方面へ通じる大桑城へ守護所を移転したと考えられている。

谷筋に階段状の曲輪群が

この内紛でも活躍した家臣のひとりが、斎藤道三である。1542(天文11)年から大桑で戦いがあり、1544(天文13)年に朝倉氏や織田氏が美濃に侵攻。道三がこの戦に勝利したのを機に、美濃の中心地は大桑から道三の拠点である井之口(岐阜市)へと移行しはじめたようだ。そして1552(天文21)年、ついに道三が頼芸を追放。頼芸が六角氏のもとへ逃れると、道三が名実ともに美濃国主となり、井之口に稲葉山城(後の岐阜城)と城下町が成立した。美濃の中心地は完全に井之口へ移行し、大桑城は廃城になったとみられている。

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

大桑城の竪堀と土橋

大桑城は、標高407.5メートルの古城山に築かれた広大な山城だ。かつての大手道とは異なるが、南麓(なんろく)の登城口または西側中腹の登城口から登っていく。その前に忘れずに見ておきたいのが、南麓の「四国堀」である。

大桑城の南麓に開けた谷間には、城下町が形成されていた。守護の城下町のあり方を知る上でも貴重な事例だ。四国堀の土塁と堀は、その名残。谷をせき止めるように、谷の入口に四国堀や越前堀、外堀などを築き、城下町全体を堀と塁で守る「惣構(そうがまえ)」を構築していた。

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

四国堀の一部

大桑城は、特殊な構造をしている。もっとも大きな特徴は、山頂の北西側にある谷筋に、階段状の曲輪(くるわ)群が展開していることだ。戦国武将の居城のような山城は、山頂部を削平して中心的な曲輪を置く。しかし大桑城の場合、山頂部の曲輪はほぼ削平されておらず、建物を構築するようなスペースはまったくない。むしろ、削り込まずに谷筋を囲む土塁のように使っている。

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

山頂の曲輪。かなり狭い

谷筋の中央を1本の道が通り、その両側に20ほどの曲輪が規則正しく配置される。こうした構造は、近江守護・六角氏の観音寺城(滋賀県近江八幡市)の構造によく似ている。六角氏との関係や、守護の山城のあり方を考察する上でも興味深い。

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

谷筋に展開する、階段状の曲輪群

この谷筋の曲輪群からは15世紀末から16世紀前半の遺物が採集されている。その内容からは、防御施設ではなく居住空間であったことが推察される。また、歩いていると地表面にいくつか礎石が確認でき、建物が建っていたことも連想できる。

削平が甘い山頂部と、城内の石垣

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

山頂付近からの眺望

模擬天守が建つ山頂付近からは濃尾平野を一望でき、天気がよければ岐阜城(岐阜市)も見渡せる。守護の城らしい展望だ。主郭とされる山頂の曲輪は、かなり狭く削平が甘い。南北に長く、西側の一段下の腰曲輪から北側の尾根筋へ曲輪が展開する。主郭の南西側に伸びる尾根には、食い違いの竪堀や土橋、石垣が見られるが、全体的に削平されておらず、戦国時代に築かれる防御性の高い山城とは一線を画す。端から端までは、全長700メートルほどだ。

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

土橋と食い違いの竪堀

戦国期の城なのに石垣が

もうひとつの大きな特徴が、石垣が築かれていることだ。城内をくまなく歩くと、かなり広範囲に石垣が用いられていることに築く。「番所」と記された南西側の尾根の先端付近では、斎藤道三の稲葉山城を彷彿(ほうふつ)させる巨石もみられる。

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

番所と書かれた区域。周辺に巨石が転がる

前述した谷筋の曲輪群では、区画の塀となる曲輪の側面が石垣によって護岸されているのが見逃せない。谷筋の居住空間は、部分的ではなく石垣でがっちりと囲まれていたのだろうか。高さ3メートルほどの高い石垣もあり、高い石垣はまだ導入されていないと考えられている戦国時代の山城を考える上でもおもしろい。石垣の積み方を見ていると、どこか朝倉氏の技術を連想させる。

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

谷筋の曲輪群に残る石垣

前述した城下町の四国堀は、朝倉氏が4カ国の人々に命じて掘らせたという伝承が名の由来という。越前堀の名が残るのも興味深い。今のところ、朝倉氏が城づくりに関わった史料はないようだが、歴史的な背景をたどると、大桑城が機能していたのは、土岐氏が朝倉氏や六角氏と密接に関わっていた時期であるのは間違いなさそうだ。大桑城には、守護の城を解き明かすヒントが眠っていそうだ。

特殊な構造 美濃守護・土岐氏の最後の城 大桑城

南東側の中腹にある井戸。一段下に石積みもある

山県市では来年度から、国の史跡指定を目指した、初の本格的な発掘調査を実施すると発表している。考古学的な成果が楽しみだ。

(この項おわり。次回は3月30日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■大桑城
https://www.kankou-gifu.jp/spot/5944/(岐阜県観光連盟)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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