城旅へようこそ

築城名人・藤堂高虎の赤木城 近世の城思わせる石垣や設計

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、三重県熊野市にある赤木城です。築城の名手として知られた藤堂高虎が築いた城です。戦国時代の城でありながら、石垣や設計は近世の城のさきがけともいえる工夫があるのです。
(トップ写真は二重枡形<ますがた>になっている赤木城主郭の虎口<こぐち>)

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抑止力を意識 権力誇示のための城

三重県熊野市の赤木城は、城ファンの心をつかんでやまない城だ。後に築城名人として名をはせる藤堂高虎が、1588(天正16)年ごろに築いたとされる。

赤木城は、三重県、和歌山県、奈良県にまたがる紀伊山地のほぼ中央に位置する。このあたりは浸食により地形が険しく、赤木城はわずかに開けた小盆地の丘陵を利用して築かれている。現地を訪れると、敵を寄せ付けない立地というより、むしろ包囲されているように感じるだろう。標高は約230メートルあるものの、城下から主郭までの比高はわずか30メートルほどしかない。周囲を見渡せば、南東には標高736メートルの白倉山、東には標高777メートルの玉置山がそびえ、城の背後にあたる北側にも標高500〜700メートル級の山々が連なり、四方を囲まれているような印象がある。

敵に攻め込まれにくくするなら、城はなるべく標高の高いところに築いたほうがいいように思える。しかしこの城は、それだけが城造りの目的ではないことを教えてくれる。赤木城は、抑止力を意識した、権力を誇示する城だったのだ。

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南側から遠望する赤木城。山に取り囲まれているのがわかる

築城の背景が、立地の意義を教えてくれる。奥熊野は、1585(天正13)年に紀伊国に侵攻してきた羽柴(豊臣)秀吉の傘下に入り、城や寺社造営の木材の供給源として重要視された。新宮から風伝峠を超えて吉野方面に通じる北山街道が通り、田平子峠(たびらことうげ)を越えて入鹿(いるか)・本宮方面に通じる十津川街道も通っている。周辺は古くから銅などの鉱山資源に恵まれ、入鹿では刀鍛冶(かじ)が行われ、熊野では木材が産出されていた。

石垣や縄張は近世の先駆け

紀伊は羽柴秀長の領地となっていたが、浪人の反発は強く、熊野支配は難航した。1586(天正14)年から大規模な北山一揆が起こり、一応の鎮圧まで3年を要している。赤木城は、材木伐採に関わる奉行のひとりとして置かれていた高虎が、在地旧勢力を抑える目的で築城したとされている。

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主郭南面の石垣


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北郭の先にある堀切。北側は尾根続きのため断ち切られている

赤木城は、同時期に築かれた城と比較すると、中世の城らしい地形の使い方でありながら、近世の城の特徴である石垣や技巧的な縄張(設計)が導入された先駆的な城だ。主郭の出入口に設けられた二重枡形虎口は、内枡形と出枡形を組み合わせた複雑な設計で、内枡形の外側には、櫓門跡(やぐらもんあと)と思われる礎石も発見されている。いわゆる、織田・豊臣系の城の特長と合致する。つまり、赤木城は豊臣政権の力を象徴する城だったのだ。先駆けとなる石垣も、街道から見えることに大きな意義があったと思われる。

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主郭から見た、二重枡形虎口

侵入口となる東側からの見栄え重視

城内の石垣に見られる積み方の違いからも、社会情勢と築城の意図を感じることができる。

赤木城は丘陵の突端を利用して主郭を置き最高所とし、北、南西、南東方向の三方に続く尾根上に曲輪(くるわ)を展開している。南西、南東方向の尾根上には、それぞれ2段にわたる複数の曲輪を置くが、この西郭と東郭の石垣を比較すると、西郭よりも東郭のほうが積み方が整っているのだ。どうやらこの城は、東山麓(さんろく)を縦貫する北山街道からの見栄えを意識してつくられたようだ。敵が赤木城に侵攻する場合も、侵入口となるのは東側だ。東郭の石垣が高く険しく積まれ、側面から攻撃する横矢掛かりを意識した技巧的な設計なのも、このためだろう。

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南東の尾根にある東郭の門跡。両側に高い石垣がそびえ敵を迎撃する

赤木城から800メートルほどのところには、田平子峠刑場跡がある。反発した北山の国人や土豪を高虎が処刑したとされる場所だ。在地の勢力が抵抗を繰り返しながら新政権に制圧されていく過程がよくわかることから、「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」として国の史跡に指定されている。

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田平子峠の向かい側にある、北山一揆の殉難者を供養する塔

城内の見どころとなる石垣と縄張の中でも、必見はやはり主郭だ。主郭は高さ4メートルほどの立派な石垣でがっちりと囲まれている。周辺の集落が一望できるのも、この城の意義を実感できるポイントといえる。天正期の石垣が残っている例は全国的にも希少で、まだ未発達な隅角部の算木積みも、ほかではなかなかお目にかかれない。大小の石材が入り交じった、いかにも古めかしい野面積みの石垣も、城ファンをうならせる。

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主郭の算木積み

主郭の構造で見逃せないのは、前述の二重枡形虎口だ。道筋を何度も折り曲げてあるだけでなく、下段の虎口には階段がないなど防御の工夫が感じられる。1588年の段階で、高虎がこれほどの設計力を発揮していたことにも感心せずにいられない。城の正面玄関でもあるため、上段の虎口には大きな石を据えて立派に見せている点にも注目したい。

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下段の枡形内から見上げる上段の虎口。大きな鏡石が据えられている

東郭には門を挟んで二つの曲輪が配置されている。門の直前で急坂になっているのは、敵が侵入しにくくするためだろうか。高い石垣がそびえ立ち、敵を迎撃する構えが感じられる。西郭は東郭と比較すると傾斜が緩やかだが、山麓から見える部分には大きな石が使われている。

生活の場は、東西の尾根に挟まれた山裾の南郭にあったようだ。三つの曲輪が並び、建物の礎石やかまど跡が見つかっている。街道に通じるこの場所に屋敷を構えた後、山上に城を築いたとみられている。

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山裾の南郭。発掘調査により生活の痕跡が確認されている

(この項おわり。次回は4月6日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■赤木城
https://www.kankomie.or.jp/spot/detail_2904.html(三重県観光連盟)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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