城旅へようこそ

家康の城の地下から出現! 定説揺るがす二つの天守台 駿府城(1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、徳川家康の城、静岡市の駿府城です。日本一大きな天守台のあるこの城は、家康が「大御所政治」をした場所として知られますが、近年の発掘調査で、新たな事実が次々にわかってきました。
(トップ写真は天守台の発掘調査が行われた駿府城=2020年2月22日撮影)

時代のうねりに合わせ進化した城

駿府城(静岡市)で、「駿府城跡天守台発掘調査」が行われている。2016(平成28)年度から2019(令和2)年度の4年度は、掘削・測量作業を実施。その成果の数々が、駿府城の解明のみならず、全国の城の歴史を解き明かす上でも大きなものとなり関心を集めている。調査成果の概要をレポートするとともに、改めて駿府城の魅力と価値を考えてみたい。

「駿府城は誰の城か」と聞かれれば、ほとんどの人が「徳川家康の城」と答えるのではないだろうか。江戸時代初期、将軍職を譲った家康が大御所政治を行った城だ、と。もちろんその通りなのだが、実は、駿府城には別の顔もある。今回の天守台発掘調査によって、その実態に大きな光が当たることとなった。地下から掘り起こされた天守台に隠されていたのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、時代のうねりの中で駿府城が進化を繰り返してきたという事実。当時の城の基軸ともいえる、先進性と社会構造を反映する城であったことが明らかになった。

家康の城の地下から出現! 定説揺るがす二つの天守台 駿府城(1)

駿府城公園内に立つ、徳川家康の像

家康が築き、秀吉の部下が入り、再び家康の手に

まずは、駿府城の歴史を確認しておこう。天守台を知る上でポイントとなる時代区分は、大きく三つある。まず、豊臣秀吉の治世における家康の在城期間だ。1582(天正10)年に武田氏が滅亡すると、家康は織田信長から駿河を与えられ、本能寺の変を経て、5カ国(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)を領有する大大名となった。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いを機に羽柴(豊臣)秀吉に臣従。1586(天正14)年に駿府へ拠点を移し、駿府城の築城に着手した。

次は、1590(天正18)年からの中村一氏の在城期間である。1590年、秀吉は北条氏を討伐すると、家康に北条氏の旧領である関八州(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野の一部・常陸の一部)への移封を命じた。江戸に移った家康に代わり駿河に入ったのが、秀吉の家臣である一氏だった。駿府城主となった一氏及び後継の一忠は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの直後まで約10年間、駿府城に在城した。

そして最後が、江戸時代初期に家康が大御所政治を行った期間だ。家康は1605(慶長10)年、秀忠に将軍職を譲ると駿府城に戻り、1607(慶長12)年から駿府城を大改修。1616(元和2)年に75歳で亡くなるまで在城した。駿府城の築城は、天正期(戦国時代末期)の家康の築城と、慶長期(江戸時代初期)の家康による大改修の、大きく2回といってよいだろう。

家康の城の地下から出現! 定説揺るがす二つの天守台 駿府城(1)

発掘された、家康が慶長期に築いた天守台(2020年2月22日撮影)

天守も、天正期と慶長期にそれぞれ造営された。天正期の駿府城の姿は記録が少なくほとんどわかっていないが、天守は1588(天正16)年に建設されたようだ。慶長期の天守は、1607年の築城開始と同時に建てられたものの、同年に火災で焼失。すぐさま再建され、1610(慶長15)年に落成した。再建された天守は1635(寛永12)年に再び火災により焼失し、再建されず天守台だけが残された。

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静岡県庁別館21階の富士山展望ロビーから見下ろす駿府城公園。本丸北西隅に天守台があった(2020年2月22日撮影)

今回の調査は、家康が慶長期に築いた天守台の正確な位置や規模、石垣の残存状態などの確認を目的として行われた。というのも、江戸時代を通じて残っていた天守台は、1896(明治29)年、歩兵第34連隊の設置に伴い、上部が破壊されてしまったからだ。取り壊した天守台の土砂で、本丸堀が埋め立てられた。天守台の高さは本丸堀の水面から約19メートルあったとされる。そのうち、本丸堀を埋め立て地面にするために上部約12メートルを取り壊したと推察されるので、差し引き約7メートル分が地下に埋まっていることになる。

天守台は日本一の大きさ

2018年度までの調査で、天守台の規模や石垣内部の構造が明らかになった。西辺、北辺、南辺に続き、南東隅で根石(石垣の一番下に据えられた石)が確認されたことから、天守台の規模が確定。慶長期の天守台はとてつもなく大きく、南北約68メートル×東西約61メートルに及ぶことが判明した。これまで日本最大とされていた江戸城の天守台は、約45メートル×約41メートルとされ、それをはるかに凌駕(りょうが)する大きさだ。

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慶長期天守台の基底部。一般的な胴木ではなく、巨石や河原石が据えられていることが判明した(静岡市提供)

寸法が「駿府城御本丸御天主台跡之図」(静岡県立中央図書館蔵)とほぼ一致することもわかった。絵図には天守が焼失した後の天守台の寸法や構造が細やかに記されており、かなり精巧な絵図と断定できたという。日本一大きな天守台だからといって日本最大の天守が立っていたかどうかはわからないが、これから天守の規模や形状を考察する上で大きな手がかりになりそうだ。絵図に描かれている、石組みの井戸も見つかっている。

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慶長期天守台。右側のポールが、かつての天守台の高さを示す(2020年2月22日撮影)


家康の城の地下から出現! 定説揺るがす二つの天守台 駿府城(1)

慶長期につくられたとみられる井戸(静岡市提供)

時期が異なる、別の天守台が出現!

もっとも大きな話題になったのは、2018年度の調査で新たに見つかった天守台と大量の金箔瓦だ。慶長期の天守台とは別の天守台が、地下から姿を現したのだ。慶長期天守台の南東角の下から重なるようにして、南北約37メートル×東西約33メートルの天守台が掘り起こされた。

新たに見つかった天守台の石垣を見ると、石材の種類や大きさ、積み方が明らかに慶長期天守台とは異なる。ある程度成形された石材を用いている慶長期天守台の石垣に対して、あまり加工していない、大小さまざまな大きさの石材を積み上げた野面積みの石垣だ。隙間には、たくさんの河原石を詰め込んで固定している。決定的に違うのは、隅角部の算木積みの完成度。新たに発見された天守台は算木積みが未発達で、積まれた時期が確実にさかのぼる。

家康の城の地下から出現! 定説揺るがす二つの天守台 駿府城(1)

手前が慶長期天守台の西面で、奥が天正期天守台の西面と北西隅部。(2020年2月22日撮影)

天守台の横から出土した363点に及ぶ金箔瓦(きんぱくがわら)も、天守台の構築時期を考える上で大きな発見だ。なぜなら、金箔瓦は、築城時期と築城者が限定される特別な瓦と考えられているからだ。

金箔瓦とは、金箔を貼った瓦のことだ。織田信長が自身の居城と織田一門の城に用い、秀吉もそれを受け継いで、大坂城(大阪市)や聚楽第(京都市)、伏見城(京都市)などの居城に用いた。秀吉は豊臣政権が確立すると家臣の城での使用も許可したようで、蒲生氏郷の会津若松城(福島県会津若松市)、前田利家の金沢城(金沢市)、毛利輝元の広島城(広島市)、仙石秀久の小諸城(長野県小諸市)などからも出土している。つまり金箔瓦は極めて政治色が強く、象徴性が高い瓦だった。

家康の城の地下から出現! 定説揺るがす二つの天守台 駿府城(1)

出土した金箔瓦の一部(静岡市提供)

1590年に家康が江戸に移ると、家康の旧領地には秀吉の重臣たちが配置され、中村一氏が駿府城、山内一豊が掛川城、堀尾吉晴が浜松城、池田輝政が吉田城と、東海道沿いに城を築いている。いずれも、秀吉の城に準じた総石垣の城だ。このことからも、新たに見つかった天守台は、1590年に駿府城へ入った中村一氏が築いた天守台であると判断された。

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天正期の天守台の石垣(静岡市提供)

これらの城は、家臣たちが独自に築いた自由度の高い城ではなく、秀吉の戦略的な駒のような役割を担う城だったようだ。発見された駿府城の天正期天守台は、同時期に築かれた天守台の中では最大級を誇る。当時の築造技術や構造の解明だけでなく、駿府という地の重要性、豊臣政権の城のあり方を考える上でも大きな発見となった。

ところが、2019年度の発掘調査での新発見により、天正期天守台の築造時期がさらにさかのぼる可能性が浮上した。それについては次回、お話ししよう。

(つづく。次回は4月13日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■駿府城
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/castle-info/(駿府城跡天守台発掘調査 発掘情報館きゃっしる〈別館〉)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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