城旅へようこそ

山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、静岡市の丸子(まりこ)城です。丸馬出からふもとまで延々続く竪堀は長さ100メートル以上! 随所の緻密(ちみつ)な設計に、思わずうなってしまうという名城なのです。
(トップ写真は、丸子城の西側斜面をめぐる長大な横堀)

【動画】丸子城を訪ねて

縄張のおもしろさが楽しめる名城

静岡駅からすぐに行ける戦国時代の名城がある。駅から車で15分ほど、安倍川を渡り西へ4キロほどのところにある丸子城だ。市街地から離れているため後世の改変を受けることなく、複数の丸馬出やダイナミックな横堀、長大な竪堀などがよく残る。戦国時代の縄張(設計)のおもしろさが存分に楽しめる名城といえよう。縄張を読み解けなくても、ひとつひとつのパーツを目の当たりにするだけで、戦国時代の山城の戦闘性や仕掛けにきっと興奮するはずだ。

築城年代は定かではない。今川氏が駿府へ入った直後に築かれたともいわれるが、1568(永禄11)年に武田信玄が駿府を手中に収めた後は、武田氏の城となった。信玄はすぐさま重臣の山県昌景に2500人の兵をつけて陣を構えさせ、今川氏に対する守りを固めたとされる。この時期に、なんらかの改修があったのだろう。もっとも重要視されたのは1579(天正7)年頃からの徳川家康との攻防時とみられ、家康の侵攻に備えて大改修された可能性が高そうだ。

山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

大手曲輪(くるわ)に通じる土橋

駿府の西を守る要の城

丸子城は、西から駿府へ入る際ののど元に位置する。宇津ノ谷峠を越えてくる敵から駿河側を防備する、重要な城だったのはいうまでもない。何か軍事行動が起これば、必ず押さえておかなければならない場所といえる。標高約140メートルの山に築かれ、眼下には街道を見下ろせる。南には丸子川が流れ、東は泉ケ谷、西は大鈩(おおだたら)という二つの谷にはさまれた、申し分ない立地だ。1582(天正10)年の武田氏滅亡後、駿府に入った家康も駿府防衛のために丸子城を重視し、家臣を駐留させたという。

山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

斜面の下から見上げた、城の西側をめぐる横堀と堡塁(ほるい)

とにかく見どころが多く、何時間でもいられる城だ。必見ポイントをいくつかに絞るなら、まず武田氏の城である根拠とされる「丸馬出」が挙げられる。丸馬出とは、<諏訪原城>で詳しく触れた、虎口(出入口)の前に設けられた、半円型の空間と堀のことだ。

丸子城は山頂に本曲輪を置き、二の曲輪、三の曲輪、北曲輪を北東方向に並べ、北曲輪から東側にのびる尾根に大手曲輪を置く構造だ。城の大手は東側の泉ケ谷で、登山道を15分ほど登ると駐屯地らしき細長い曲輪に到達し、そこを抜けると城の主要部に至る。

まず、幅10メートル以上ありそうな大手曲輪の東側を取り巻く横堀が、迫り来る敵を待っていたと言わんばかりに眼前に立ちはだかる。思わず声をあげてしまうほど圧倒されるが、この横堀はまだ序の口。本曲輪方面へと歩き進むと、さらに度肝を抜かれる姿が次々に現れる。

山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

大手曲輪の東側を取り巻く横堀。丸馬出のように、突出部に土塁と堀がめぐる

大手曲輪から本曲輪にかけては、虎口や堀切を介して曲輪が続く。細かなところにも横矢掛かりが意識され、射撃面を増やしつつ死角を生み出さない巧妙な設計が施されている。注目したいのは、曲輪の西側だけに高さ1〜2メートルの土塁が構築されていること。この城は、どうやら徹底して西側の防御を強化しているようだ。

曲輪群西側に延々150メートルの横堀

それを示すのが、曲輪群の西側直下に設けられた長大な横堀だ。曲輪西端の土塁に立ち見下ろすと、落差10メートル以上、長さ150メートルはあろうかと思われる横堀が延々と執拗(しつよう)に掘り込まれているのがわかる。これほど長大に残る横堀は全国屈指で、しかも横堀のラインにはいくつか堡塁が設けられている、全国でもまれに見る徹底した設計だ。もちろん、堀底が丸見えということは、曲輪の上から堀底の敵の動きがよく見え、射撃できるということだ。

山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

北曲輪。西側に土塁がある


山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

北曲輪から見下ろす横堀

この西側の横堀と比較すると、二の曲輪と本曲輪を分断する巨大な堀切さえも見劣りしてしまう。ただ、注意深く見てみると、この堀切はそのまま東側の斜面へ落ちる竪堀になっている凝った仕様だ。西側を意識した城だが、東側の防備も抜かりないらしい。よく見ると本曲輪の東側にも曲輪が連なり、東端には巨大な竪堀が数本、しっかりと設けられていた。

本曲輪は東西約38メートル、南北約70メートルで、周囲には高さ1〜2メートルの土塁がめぐって、虎口は三つあり、北側は枡形虎口、西側は喰(くい)違い虎口、東側は平入り虎口と、形式はさまざま。他の曲輪との連携を考えると、用途によって使い分けられていたと思われる。

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本曲輪。看板の後ろに喰違い虎口が見える

丸馬出の南にY字型の竪堀、そして……

さて、丸子城の設計の最大の特徴といえるのが、本曲輪西側の丸馬出と竪堀だ。本曲輪から喰違い虎口を抜けると、直下に横堀がある。敵にすれば強烈な遮断線となっているこの横堀を、すり抜けるようにして土橋を伝うと腰曲輪へ通じる。振り返れば、本曲輪の切岸は削り込まれた壁のようにそそり立ち、絶妙に斜面に刻まれた横堀によって、城兵があらゆる角度から狙える設計になっているのがわかる。

この下にさらにもう1本横堀があり、その先に出丸のように突出した丸馬出がある。緩斜面の弱点を補うべく、尾根上に設けた出撃陣地といったところだろう。西麓(せいろく)から攻めてくる敵に向けた、強烈な臨戦態勢が感じられる。丸馬出の南側には、かなり傾斜のある竪堀が「Y」字型に鋭く掘り込まれ、南斜面からの侵入もシャットアウトしている。

山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

本曲輪西側の堀切と、その先にある丸馬出

感嘆の声を上げずにいられないのは、この丸馬出とセットで長大な竪堀が掘り込まれていることだ。西麓に向けて落ちる竪堀の長さは、なんと残存しているだけで100メートル以上。これほど長大な竪堀は、全国的にもまれだ。試しに竪堀を下りてみたところ、ほぼ山麓まで延々と続いていた。

守りやすく、攻めにくい設計の妙

竪堀を引き返すときに敵兵の目線で竪堀を登ってみると、簡単には本曲輪にたどり着けない城だと改めて実感できた。竪堀を登り切ったところで丸馬出が壁のように立ちはだかり、頭上から矢の雨が降ってくる。傾斜もかなりあるため、突破率は低そうだ。たとえここを切り抜けたとしても、その先には2本の巨大な横堀、壁のような切岸にさえぎられ、虎口を探すことすら難しいだろう。

城兵からすれば、極めて見通しがきく、素晴らしい設計といえる。横堀の先に腰曲輪、丸馬出の先に竪堀といった具合に塁線を折り曲げながらパーツを重ねるように配置してあり、かなり効率のよい迎撃ができそうだ。絶妙な場所に射撃場が設けられ、たくさんの城兵が駐屯できるスペースも確保されている。

山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

竪堀の底から見上げたところ

長大な横堀は、武田勝頼が改修したとされる高天神城(静岡県掛川市)の横堀を彷彿(ほうふつ)させる。また<諏訪原城>で触れたように、丸馬出は武田氏の“お家芸”ともされる。そのため丸子城は“武田系の山城”として高水準を誇る縄張が知られている。ただし<諏訪原城>で述べたように、近年は家康が武田氏との遠江をめぐる戦いの後、武田氏の城と類似する長大な横堀や技巧的な虎口、巨大な丸馬出を築いていた例が出ている。前述の通り、丸子城は家康にも重視されていたと思われ、そのため家康による改修の可能性も指摘されている。

山麓まで続く竪堀 緻密でダイナミックな設計に悶絶! 静岡市・丸子城

横堀と堡塁が絶妙に配置されている

丸子城は1590(天正18)年、家康の関東移封に伴い廃城になったようだ。しかしこの地が江戸時代になっても利便性が高いことは変わらず、山麓の近辺は東海道五十三次の20番目の宿場町、丸子宿として繁栄した。丸子城の山麓近くにある1596(慶長元)年創業の「丁子屋(ちょうじや)」は、歌川広重の浮世絵にも描かれた老舗。丸子城を下山した後は、丁子屋で名物のとろろ汁をいただくのが城ファンの間では定番だ。

(この項おわり。次回は6月8日に掲載予定です)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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