城旅へようこそ

毛利家260年間の居城 萩城(1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、山口県萩市の萩城です。関ケ原の戦いで敗れた毛利輝元が領地を削られ新たに築きました。およそ260年間、毛利家の政庁となった城です。
(トップ写真は内堀越しに見る萩城)

【動画】萩城を訪ねて

大減封の末、広島城から移転

萩城は、毛利輝元により1604(慶長9)年から築かれた城だ。1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで西軍の総大将を務めた輝元は、中国地方8カ国112万石から周防・長門2カ国36万石に大減封。輝元が関ケ原の戦いの直後に毛利氏の祈願寺である満願寺と家臣に宛てた書状には、「中国も家も一身も此時に一大事相極候」とあり、領国も毛利家も自分自身も一大事であると敗戦の処遇を捉え、領国の安堵(あんど)と家臣の安泰を願っていたようだ。

新たな城地として、萩の指月山(しづきやま)、防府の桑山、山口の高嶺(こうのみね)の三つの候補地から、幕府との相談の末に選ばれたのが萩の指月山だ。萩には、津和野城(三本松城)を居城とする吉見氏が居館を設け、家臣団や寺社などが建つ城下町が形成されつつあったようだ。輝元はこれを大改修して、居城と城下町を構えたとみられている。

毛利家260年間の居城 萩城(1)

二の丸南門枡形(ますがた)に建つ、毛利輝元の像

萩城と城下町は、阿武川の河口に形成された三角州にある。北は日本海、東・西・南は山々に囲まれた立地だ。輝元が入ったときは、現在とは異なり完全に陸繋島(りくけいとう)化されておらず、指月山の南東部は沼地、東側には海水が入り込んでいたという。

もちろん、地盤が軟弱で湿地帯の多い三角州は築城の立地条件としては望ましくはない。毛利氏が移転前の居城とした広島城が同じく三角州にある城であることを考えると、広島城の築城で培われた技術が活用されたのだろう。とはいえ、文献資料をたどると、江戸時代を通じて石垣の修理履歴があり、やはり地震や風水被害は少なからずあったようだ。

湿地帯の埋め立てや木々の伐採などの土木工事に着工した後、同年6月に縄張が起工され、11月に輝元が入城した。その後4年の歳月をかけ、萩城は1608(慶長13)年に完成。以後約260年間、萩城は毛利氏の居城となり、萩藩の政庁として機能した。

毛利家260年間の居城 萩城(1)

二の丸東側の菊ケ浜から見た、二の丸の石垣

1863(文久3)年には13代藩主の毛利敬親が山口に藩庁を移しており、明治維新を迎える頃には萩城の政庁としての役割は薄れていたようだ。萩城は1873(明治6)年に払い下げが命じられ、天守をはじめ矢倉14棟、門4棟、武具庫3棟が解体された。現在、建物は残っていないが、萩城跡指月公園として整備され、見事な石垣や堀が往時を偲ばせている。

威厳に満ちた城 かつては五重の天守も

毛利家260年間の居城 萩城(1)

二の丸西側の櫓(やぐら)台跡

「さすがは、かつて豊臣秀吉政権の五大老を務めた毛利家の城と城下町だ」と、感嘆する城だ。城域は広く、石垣が広範囲に積まれ、威厳に満ちている。大きな天守台はどっしりと腰を据え、堂々としたたたずまいだ。天守台は弓のような弧を描き、水堀に曲線が反射する姿も美しい。この上にそびえていた五重の天守は、さぞかし威容を誇っていただろうと想像が膨らむ。時が止まったような静寂が天守台の存在感を引き立てている一方で、関ケ原の戦いで暗転した輝元の心情を慮らずにもいられない。

萩城は、指月山山頂の「要害」と、指月山南麓(なんろく)の「本丸(天守曲輪)、二の丸(二の曲輪)、三の丸(三の曲輪)」で構成される。現在、萩城跡指月公園として整備され観光スポットになっているのが、本丸だ。正式名称は本丸ではなく「天守曲輪」で、幕府に提出する絵図などにも天守曲輪と記されている。指月山を背にし、そのほかの三面(東・西・南)は二の丸に囲まれていた。

毛利家260年間の居城 萩城(1)

天守台。背後の山が指月山だ

本丸の南側は内堀、北側は練塀で囲まれ、本丸の半分は萩藩庁で城主の住まいでもある本丸御殿が占めていた。一般的な御殿と同じように、萩城の本丸御殿も、政務を行う公的な空間と生活をする私的な空間が分かれ、南側の大玄関を正面として、中央南側に大広間や大書院、東側に大番所などの藩の役所、中央北側に藩主の居所、西側に西御殿と呼ばれる大奥が置かれていた。

城と城下町のようすが詳しく描かれた1652(慶安5)年の萩城下町絵図を見ると、本丸の広さは東西110間×南北80間とあり、換算すると東西200メートル×南北146メートルほどになる。残念ながら本丸御殿の建物は残っていないが、現地を歩くとかなり広く、大きな御殿が建っていたことが想像できる。

現在、本丸西側に建っている花江茶亭(はなのえちゃてい)は、1889(明治22)年ごろに三の丸の川手御殿から移築された建物だ。また煤(すす)払いの茶室と呼ばれる建物は、1938(昭和13)年に萩藩寄組士だった梨羽氏の下屋敷から移築されている。本丸御殿跡の北側に建つ志都岐山神社は、1878(明治11)年の創建。初代から12代までの萩藩主がまつられている。

本丸への入口となる門は、正面となる南側に本丸門、東側に台所門、西側に西高門(西門)、東北隅に井上門の四カ所だった。本丸門へは極楽橋と呼ばれる木橋が内堀にかかり、これを通って渡ったようだ。現在は眼鏡橋と呼ばれる石造橋がかかっている。

毛利家260年間の居城 萩城(1)

本丸跡に建つ志都岐山神社

本丸の東・西・南側を取り囲むように配置されているのが、二の丸だ。萩城下町絵図を見ると、二の丸の西側と東側は完全に海に面していて、南側だけが陸続きになっているため、内堀が設けられていた。二の丸の南側にある三の丸とを隔てる中堀は大正時代にほぼ埋め立てられてしまったが、本丸と二の丸を隔てる内堀はほぼ改変されずに残っている。ちょうど観光客向けの駐車場になっているところが中堀跡で、駐車場の北側にある立派な石垣づくりの枡形が、二の丸の入口の一つである南門の枡形だ。

毛利家260年間の居城 萩城(1)

二の丸東側は、門を出るとすぐに海岸が広がる


毛利家260年間の居城 萩城(1)

二の丸の入口の一つ、南門

二の丸の東北部には、築城寺に安芸から移された満願寺や宮崎八幡宮、御茶屋と呼ばれた東園があった。東園は連歌会の際の接待場として1698(元禄11)年頃に築かれたようで、現在は池だけが残っている。二の丸の西側にある洞春寺は毛利元就の菩提寺で、その西に隣接する妙玖寺は元就正室の菩提寺だ。

毛利家260年間の居城 萩城(1)

東園に残る池

三の丸は「堀内」とも呼ばれ、侍屋敷が整然と建ち並んでいた。西側は海に面し、東側と南側東半は外堀に面していたようだ。外堀を渡って城下から三の丸へ入るには北の総門、中の総門、南の総門(平安古の総門)の三つの門を通った。萩博物館の東側あたりが中の総門で、枡形の跡が残る。2004(平成16)年には、北の総門が復元されている。

毛利家260年間の居城 萩城(1)

復元された北の総門

一部の改変はあるものの、広範囲に渡り城や城下町の構造が残っているのが萩城の魅力だ。次回以降は、本丸の見どころ、指月山山頂の要害、城下町についてお話ししよう。

(次回は6月22日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■萩城
https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100049(一般社団法人萩市観光協会)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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本丸の雁木、海に面した二の丸の石垣が見どころ 萩城(2)

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