城旅へようこそ

400年の歴史を語る益田氏の名城 七尾城と三宅御土居跡

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、島根県益田市の七尾城。山上のこの城と、益田川対岸にある館の跡「三宅御土居(みやけおどい)跡」とセットで国の史跡に指定されているユニークな存在です。
(トップ写真は七尾城の畝状竪堀<うねじょうたてぼり>)

【動画】七尾城と三宅御土居跡

豪族・益田氏が本拠にした城

七尾城というと、上杉謙信が攻め落とした能登守護・畠山氏の居城を連想するかもしれないが、石見(島根県西部)にも七尾城と呼ばれる壮大な山城がある。現在の益田市にある、益田氏の本拠だ。

南北朝時代、石見では中小の豪族が乱立してそれぞれの領地を支配していた。益田氏もそのひとつで、石見西部では、益田氏、吉見氏、三隅氏、周布氏、永安氏らが自主性を持って割拠していた。出雲の尼子氏や安芸の毛利氏、周防・長門の大内氏のような一国以上を領有する強大な一族は台頭しなかったが、南北朝の内乱を終息させた大内氏が石見守護となった後も、大内氏の影響下で勢力を張っていた。やがて毛利氏や大内氏などの勢力争いの狭間で翻弄され、各地で激しい戦いが勃発。その過程で、城も発達していったようだ。

南北朝の動乱が始まると益田氏は北朝方に属し、三隅氏、周布氏、福屋氏など南朝方についた有力領主と対立した。やがて益田氏は大内氏の重臣である陶(すえ)氏と姻戚関係となって大内氏の傘下で活躍し、石見の国人領主として筆頭の地位を確立していった。

厳島合戦を転機に城を強化か

益田氏が約400年間にわたり本拠とした城が、益田城とも呼ばれる七尾城だ。1336(延元元)年には、南朝方の三隅氏が益田氏が籠城(ろうじょう)する七尾城の「北尾崎の木戸」を攻め破ったと記され、この頃には城として機能していた。しかし現況から推察すると、規模も構造も南北朝時代の城とは考えにくく、後に改修された可能性が高い。

南北朝時代の城は堀切や竪堀を多用せず、山頂部に空間を確保しただけのような城が一般的だ。しかし七尾城は、全長約600メートルを誇り、曲輪(くるわ)の数は20を越え、大規模な堀切や畝状竪堀が多用されるなど戦闘性が高く、戦国時代の城を思わせる。

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谷筋の馬釣井から見上げる、主郭に至る段曲輪

七尾城の改変の転機は、1555(天文24)年の厳島合戦による陶晴賢(はるかた)の戦死だろう。益田氏は陶氏と同盟を結ぶことで、敵対する津和野の吉見氏と対立していた。1551(天文20)年に陶晴賢が大内義隆を討った際には、当主の益田藤兼も挙兵している。一方、この頃の吉見氏は毛利氏と関係を結んでいた。益田氏は有力な同盟相手を失い、孤立状態に陥ったのだ。七尾城はこうした緊迫した情勢下で、毛利氏への脅威に対抗するために強化されたと考えられる。

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最高所の主郭と、一段下にある二の段

七尾城は、益田平野を見下ろす平野南東の丘陵上、山間を蛇行する益田川が益田平野に出る場所にある。主郭からは、城下の平野部および日本海を一望できる立地だ。城は「Y」の字のような形状で、西尾根と東尾根が谷筋を挟んで二手に延び、二つの尾根上と、結節点の南側に曲輪群を置く。

戦国時代の城の大手は城の北側で、西尾根と東尾根の間の谷筋が大手道になるようだ。西尾根と東尾根で、侵入者を両側から挟み込む構想がうかがえる。東尾根の先端部には「艮(うしとら)の出丸」が設けられ、さらに艮の出丸の北側から東側の斜面には畝状竪堀が放射状に構築されている。この場所に遮断線を設けることで、東尾根の東側へと迂回(うかい)させずに谷筋へと引き込むためではないだろうか。

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艮の出丸。壁のような土塁が設けられている

出丸と畝状竪堀のコンビネーションが見事

この艮の出丸と畝状竪堀のコンビネーションが、思わず感嘆の声をあげてしまうほど見事だ。畝状竪堀をよじ登ってきた敵は、壁のように立ちはだかる艮の出丸の前で途方にくれるはずだ。艮の出丸を攻略したとしても、東尾根上には曲輪が並び、二重の堀切などの遮断線が現れる。

西尾根上にも、東尾根上と同じように曲輪が並ぶ。尾根の先端に近いところにある尾崎丸が、南北朝時代に攻め込まれた「北尾崎の木戸」のあたりのようだ。南北朝時代の七尾城は丘陵北側の尾根を中心とした小規模な城で、徐々に拡張され丘陵全体が要塞(ようさい)化したものと考えられる。

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艮の出丸を覆う畝状竪堀。登り切ると目の前に艮の出丸が立ちはだかる

山上での生活が明らかに

二つの尾根が結節する、最高所の主郭と主郭から北側に下がった「二の段」が、城の中心部と思われる。発掘調査により、主郭からは公的な接客や儀式の場である主殿とみられる礎石建物が確認された。主郭の北端には櫓(やぐら)門も建っていたようだ。主殿からは儀礼の場で使用される土器(かわらけ)が出土しており、山上の城で饗宴(きょうえん)が行われていたと思われる。

また、二の段からは2棟の礎石建物と庭園が確認され、庭に面した私的な接客の場である会所と、日常生活の場である常御殿があったとみられる。出土遺物に16世紀前半〜中頃に使用された生活道具が含まれることからも、この頃には一定期間、山上で生活をしていたと推察される。

二の段西側の斜面中腹にある大手の帯曲輪でも、礎石建物跡が発見されている。倉庫のような建物だった可能性が考えられるが、大手道を見下ろす場所柄、防御性も兼ね備えた建物が想定されるという。大手道と思われる谷筋には、家臣団の屋敷があったとも考えられている。

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左が西尾根の太鼓の段、右が大手の帯曲輪。中央の谷筋に馬釣井という井戸がある

主郭南側の大堀切と畝状竪堀も見もの

主郭の南側も、見ごたえがあり必見だ。山頂の悠々とした雰囲気から一変して、戦闘的な空間が出現する。主郭は南端を土塁で守られ、その背後は巨大な堀切で遮断され、さらに南側に曲輪群が広がる。度肝を抜かれるのは、曲輪群の東斜面にびっしりと掘られた畝状竪堀だ。斜面を埋め尽くすような掘り方をみると、東尾根を迂回(うかい)して東側から回り込んだ敵に対しての警戒なのだろう。こうした畝状竪堀は、戦国時代末期に改変された石見の城の特徴といえそうだ。

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主郭南側の大規模な堀切


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主郭南側にある曲輪の北斜面を覆う畝状竪堀

益田藤兼は1557(弘治3)年4月の大内氏滅亡以前から毛利氏との関係改善を進めていたようで、1557年3月には毛利元就の次男である吉川元春と和睦している。1562年(永禄5)年には毛利氏と連携して尼子方の勢力と戦っており、数年をかけて関係改善に努めたようだ。そして1568(永禄11)年に吉田郡山城を訪れ、ようやく正式に毛利氏に属している。以後、1600(慶長5)年に益田元祥が毛利氏に従って長門の須佐に移るまで、益田氏は引き続きこの地を支配した。

対岸にある居館「三宅御土居跡」

「益田家文書」などには、1583(天正11)年に藤兼と元祥が再び七尾城から三宅御土居に居を移した、と記述がある。益田川の対岸にある益田氏の居館跡、この三宅御土居跡も必見だ。中世の豪族の城と館がセットで残る貴重な事例として、七尾城とともに「益田氏城館跡」として国の史跡に指定されている。

400年の歴史を語る益田氏の名城 七尾城と三宅御土居跡

三宅御土居跡の東土塁

三宅御土居は、周囲を土塁や堀、河川に囲まれ守られていた。敷地は東西約190メートル、南北約110メートルで、北東端が突出した長靴のような形だった。中世の豪族の居館としては広大で、益田氏の勢力がうかがえる。益田川を利用した物資の流通を押さえる重要な場所にあり、栄華が想像できる。

12~16世紀に建物の建て直しが繰り返されたことが発掘調査で判明しており、おもに12~13世紀、15世紀、16世紀と大きく3時期に改修されていたという。東土塁は長さ約87メートル、高さ約5メートル、西土塁は長さ約53メートル、高さ約4.5メートルに及び、東西の土塁の外側は、幅約10メートル、深さ約2~3メートルの箱堀があった。北側は緩やかな岸に階段状の雁木(がんぎ)が設けられ、益田川を運んだ産品を荷揚げしていた可能性があるという。

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三宅御土居跡の西土塁

七尾城と三宅御土居跡を結ぶ軸は、山城と居館を結ぶ「居住・経済の軸線」だ。三宅御土居跡から東にある古刹(こさつ)・医光寺までは、益田氏の文化・宗教を色濃く残す地域で、医光寺から七尾城までは、城への大手道が通り軍事的な軸となる。益田市はこの3点を結ぶ三角形を中世の歴史軸として、歴史を活かしたまちづくりをしている。数百年にわたる益田氏の支配を通して中世の地域の在り方がわかる、全国でも珍しい例だ。平面表示や案内板の設置などが充実し、訪ね歩くのが楽しい。

(この項おわり。次回は7月20日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト
■七尾城
https://www.city.masuda.lg.jp/soshiki/51/1861.html(益田市)

■益田氏城館跡「三宅御土居」
https://www.city.masuda.lg.jp/soshiki/14/1875.html(益田市)

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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