あの街の素顔

ノムさん偲ぶ感傷旅行 博多から京丹後へはるばる

プロ野球に大きな足跡を残した野村克也さんが2月に亡くなりました。戦後初の三冠王に輝いた大打者であり、数々の好投手を育てた名捕手であり、データ分析と考え抜いた戦術で日本一をかちとった名監督でもありました。私は子供の頃からそんな野村さんの大ファンでした。いつまでも元気でいてほしい。そう願っていたのですが……。野村さんのご冥福を祈り、ひとしきり悲しみに沈んだ後、亡くなった月の終わりに、私は旅に出ました。目的地は京都府京丹後市網野町。野村さんの功績を物語る品々が展示されている野村克也ベースボールギャラリーがここにあるのです。野村さんを偲(しの)ぶセンチメンタルな旅です。
(文・写真、宮﨑健二)

福岡から大阪を経て 一路京丹後へ

住んでいる福岡市を出発して大阪へ。宿泊した後、大阪駅から午前8時24分発の「特急こうのとり75号」に乗り込みました。日本海に面する網野町を目ざします。

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特急こうのとり75号

私が野村さんのファンになったのは、小学生だった1960年代後半でした。私が生まれ育った福岡市はかつて西鉄ライオンズの本拠地でしたが、へそまがりの私はライバルの南海ホークスのファンになりました。なかでも、四番打者としてホームランを打ちまくっていた野村さんにあこがれを抱いたのです。

と、車窓の風景を眺めながら目を細めて記憶をたぐりよせているうちに、約2時間かけて列車は福知山駅に到着。ここで「特急はしだて1号」に乗り換えました。

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特急はしだて1号。あれれ、特急こうのとり75号とうり二つですね

30分弱で列車は宮津駅に着きました。京都丹後鉄道に乗り換えます。

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京都丹後鉄道の車両。1両だけです

田園風景が車窓の外に広がっています。出発してから4時間弱。ようやく網野駅に着きました。降りると、改札口の近くにこんな追悼文がささやかに置かれていました。

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野村さんへの追悼と感謝の言葉。左は野村克也ベースボールギャラリーのチラシです

ベースボールギャラリーを訪ねて

野村克也ベースボールギャラリーは地場産業振興のための施設「アミティ丹後」内にあります。レンタカーで向かうと、すぐに着きました。

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アミティ丹後。野村克也ベースボールギャラリーの大きな看板が出ています

ついに中に入りました。

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野村克也ベースボールギャラリー。野村さんゆかりの品々や写真がずらり並んでいます

まず、ギャラリーの奥に設けられた献花台へ行き、手を合わせてご冥福を祈りました。

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献花台。たくさんの花束が置かれていました


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花束だけではなく、こんなボールも供えられていました

ギャラリー内を見てみましょう。選手時代の大記録の数々が表と数字で示されています。年表には野村さんの歩みが。そして、網野町で過ごした幼き日や南海時代の若き日の写真、野村さんが寄贈したトロフィーや楯などが並んでいます。

南海での現役時代にタイムスリップ

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野村さんの写真のパネル。選手時代の表情ははつらつとしています

2018年3月にオープンした野村克也ベースボールギャラリーは無料で見学ができます。約99平方メートルの会場は、私が熱心に応援していた南海時代の展示がほとんど。まるでタイムスリップしたかのようです。

私は福岡市の平和台球場で西鉄対南海戦をよく観戦しました。座るのは南海ファンが陣取る三塁側内野自由席。野村さんのバットから強い打球が放たれると、「うわあ」という歓声が起きました。そして、夜空を背景にカクテル光線に照らされた白球が見事なアーチを描いて外野席に飛んでいくのです。ホームランを見守るその数秒間は至福の時間でした。そして中学、高校時代には週末になると、南海の試合だけを放送してくれるラジオ大阪の「南海ナイター」に耳を傾けていました。勉強もせずに。

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所狭しと並ぶトロフィー。野村さんが獲得したタイトルの多さが実感できます

思い出話をもう少しさせてください。もっとも感動したのは1973年の優勝でした。監督兼選手だった野村さんはトレードで獲得した江本孟紀投手らを主力投手に育てました。さらにモットーの「考える野球」がチームに浸透。この年、前期と後期に分けられたシーズンのうち、前期に優勝。そして年間優勝をかけたプレーオフで後期優勝の阪急ブレーブスと対決。阪急有利という大方の予想を覆して3勝2敗で勝ったのです。捕手、四番打者、監督の一人三役をこなしながら優勝をかちとった野村さんはまさにスーパースターでした。

私は野村さんが胴上げされるのをテレビで見て、ポロポロと涙を流しました。ちなみに中学3年生だった私はプレーオフの全試合をテレビ観戦することができました。なぜか。実は水ぼうそうにかかってしまい、自宅療養していたのです。全身に水疱ができて間寛平みたいに「かいーの」と体をよじりつつ、神様に感謝しました。学校では「あいつはプレーオフを見るために学校をサボっている」とうわさになっていたそうですけど。

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サイン色紙。野村さんは達筆でした

ところが、優勝から4年後の1977年9月、野村さんはシーズンがまだ終わっていないのに突然監督を解任され、退団しました。チームの顔であり、功労者である野村さんに恥をかかせるような球団のやり方に悪意を感じて憤慨した私はこの時、南海ファンをやめました。そして、この先、野村さんがどんな道を歩もうとも、応援し続けようと心に誓ったのです。

ゆかりの地を訪ね歩いて

次々とよみがえる思い出に浸った後、後ろ髪を引かれる思いでギャラリーを後にしました。そして、3分ほど歩いて地元の人に教えてもらった場所を訪ねました。野村さんの育った家がかつてあったとされる場所です。

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野村さんの家があったあたりだそうです。今は何も痕跡はありません

野村さんは幼くして父を亡くし、極貧の家庭で育ちました。新聞配達やアイスキャンディー売りをして家計を助け、得意だった野球でなんとか身を立てて母親に楽な生活をさせてやろうと努力した話はよく知られています。

八丁浜に行ってみました。野村さんの家のあった場所からもっとも近い海岸です。野村少年もここに足を運んだに違いありません。貧しかった時代、ここで何を思っていたのでしょうか。

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八丁浜。どんよりした雲がかかり、日本海側らしい風景でした

空腹だったので、「とり松」という店に入りました。注文したのは、伝統的な郷土料理「ばらずし」です。

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色がきれいな「ばらずし」。税込み990円でした

家庭料理のような懐かしい味がしました。そういえば、野村さんは、貧乏だったので白米を食べることができなかった、と著書などで振り返っています。「ばらずし」もなかなか口にできなかったのだろうな、としんみりしてしまいました。

網野町は丹後ちりめんで知られる町です。人通りは少なく、ひっそりとしたたたずまいでした。地元が生んだ大選手・大監督、野村克也さんが亡くなったことを町全体が静かに悼んでいるように感じました。

網野駅に戻ると、帰りの列車がホームで待っていました。

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京都丹後鉄道の車両。紺色がきれいです

野村克也さんを偲ぶ旅は終わりを迎えました。思えば、私は野村さんの活躍に胸を躍らせ、野村さんの苦難に涙し、野村さんの成功を喜び、野村さんの含蓄のある言葉に聞き入ってきました。そう、いつも野村さんに気持ちを揺さぶられてきたのです。

私は列車の中でもう一度手を合わせて、心の中で語りかけました。
「野村さん、ありがとう。私は野村さんのファンであったことを誇りに思います」

※写真の献花台は、現在はありません。

野村克也ベースボールギャラリー
http://www.tango.jibasan.jp/baseball.html

京丹後市観光公社
https://www.kyotango.gr.jp/

PROFILE

  • 「あの街の素顔」ライター陣

    こだまゆき、江藤詩文、太田瑞穂、小川フミオ、塩谷陽子、鈴木博美、干川美奈子、山田静、カスプシュイック綾香、カルーシオン真梨亜、シュピッツナーゲル典子、コヤナギユウ、池田陽子、熊山准、藤原かすみ、矢口あやは、五月女菜穂、遠藤成、宮本さやか、小野アムスデン道子、石原有起、高松平藏、松田朝子、宮﨑健二、井川洋一、草深早希

  • 宮﨑健二

    旅ライター。1958年、福岡市生まれ。朝日新聞社入社後、主に学芸部、文化部で記者として働き、2016年に退社。その後はアウェイでのサッカー観戦と温泉の旅に明け暮れる。

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