城旅へようこそ

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、島根県浜田市の鳶巣(とびのす)城と井野城です。前者は豪族・周布(すふ)氏の、後者は井村氏の拠点でしたが、畝状竪堀(うねじょうたてぼり)で強固に防備された、小粒ながら技巧的な仕掛けの城だったのです。
(トップ写真は鳶巣城の畝状竪堀)

【動画】鳶巣城を歩いてみた

中世の石見は群雄割拠

<400年の歴史を語る益田氏の名城、七尾城と三宅御土居跡>で述べたように、中世の石見西部では、益田氏をはじめとする中小の豪族が自主性を持って割拠していた。南北朝の動乱期、益田氏が北朝方に属したのに対して三隅(みすみ)氏や周布氏が南朝方についていることからも、有力領主が主体性を持ち、時に敵対していたことがうかがえる。

1336(延元元)年に益田氏の七尾城を攻めた三隅氏は、15世紀前半にもしばしば益田氏と対立している。その原因は、被官人(家臣)の争奪だったという。相手の被官人を引き抜くことで、支配領域を拡大しようとしていたようだ。同じ動きが、周布氏や吉見氏との間にもあったとみられている。

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

三隅城の支城、針藻城からの眺望。海運の拠点だったとされる

三隅氏、福屋氏、周布氏は、御神本(みかもと)氏という益田氏と共通の祖先を持つ。益田氏の系図によれば、始祖とされる国兼は摂関家だった藤原氏の一族で、永久年間(1113〜18)に石見国司として赴任した。その曽孫の兼高が源平合戦での活躍によって鎌倉幕府の成立において厚遇を受け、石見の大部分を拝領。兼高には3人の男子がおり、長男の兼季(かねすえ)が益田地域を、次男の兼信が三隅地域(浜田市三隅町)を、三男の兼広が江津市有福温泉町あたりを本拠として、それぞれ益田氏、三隅氏、福屋氏と名乗ったという。兼季の次男の家系が、周布(浜田市周布町)を本拠として周布氏となった。

1551(天文20)年に大内義隆が陶晴賢に討たれてから毛利元就が石見を平定するまで、緊張がより高まり、豪族たちの命運が分かれた。たとえば三隅氏は、1552(天正21)年に陶晴賢と益田藤兼により三隅城を攻められ開城。その後三隅城を取り戻したとされるが、やがて1570(元亀元)年、毛利方の吉川氏に攻められて滅亡している。

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

三隅氏の居城、三隅城からの眺望

斜面を畝状竪堀で固めた鳶巣城

この地域の城の魅力の一つは、中小の豪族が緊迫した情勢下で共存し戦いに備えて強化を重ねたため、コンパクトながら技巧的な仕掛けのある城が多いことといえる。周布氏の鳶巣城(周布城)も、そのひとつだ。日本海に通じる周布川を見下ろす標高82メートルの鳶巣山にあり、山麓(さんろく)には周布一族のものとされる墓がある聖徳寺がある。周布氏は、1228(安貞2)年にこの地の地頭職を安堵されたという。対朝鮮貿易でも知られ、西麓に広がる周布平野には、市、市屋敷、土井(居館)、犬の馬場など、城下町をしのばせる地名が残っている。

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

鳶巣城。周布川を見下ろす丘陵に築かれている

丘陵の南端から尾根筋を登っていくと、城域の南端にあたる大きな堀切が見えてくる。そこから2段の細長い曲輪(くるわ)を越えると、城の中心部にあたる曲輪群に至る。

最高所の小さな曲輪を中心に、四つの曲輪がそれを囲み、北西部に虎口をともなう三つの曲輪が階段状に並ぶ。最高所の曲輪は主郭とするには規模が小さく、櫓台(やぐらだい)のようだ。南側だけ、土塁がみられる。1段下の曲輪がもっとも広く、平坦面がしっかりしていることから、ここが実質的な主郭とも考えられよう。周囲の曲輪には土塁がなく、少しずつ段差をつけながら、ずらすように配置されているのが特徴だ。

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

鳶巣城の堀切

北西側は尾根先に向かって曲輪が並び、その先には畝状竪堀が10本以上並んでいた。この先にも曲輪を設けているのが興味深い。尾根の先端に近い緩斜面への強化策なのだろうか。北から西側にも畝状竪堀があるのだが、ここは大規模な堀切や横堀で遮断した上で、斜面に無数の畝状竪堀を設けている。北西側を厳重に強化していることからも、大手は北西側の尾根先だったと思われる。

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

鳶巣城の北西側尾根先の畝状竪堀

周布氏は室町時代中期以降は益田氏と協力し、三隅氏を共通の敵としていたようだ。毛利氏が勢力を増すと毛利氏に従ったとみられるが、1570年、当主の周布元兼の不在時に周布晴氏が三隅氏と反旗を翻したため、毛利氏に攻められた。

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

主郭一段下の曲輪

井野城にも、緩斜面を覆うような畝状竪堀が

近隣の城では、三隅兼連の弟である井村兼冬の井野城(井村城)も、小規模ながら膨大な数の畝状竪堀を見ることができる。鳶巣城を連想させる、緩斜面を覆うような畝城竪堀が残っている。

主郭の西側に曲輪が階段状に並び、城の南から西側の斜面、西側から北側の斜面まで、びっしりと畝状竪堀が掘られている。西側は大きな堀切の先に畝状竪堀を配し、さらに西端は二重の堀切を設ける徹底ぶりだ。曲輪の造成や動線の確保より斜面に注力したのではないかと感じられるほどで、小さな城を必死で強化しようという警戒心が伝わってくる。しかし井野城も1570年、三隅氏と毛利氏との戦いのなかで三隅城とともに落城したとされている。

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

井野城の畝状竪堀


毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

井野城、西側の尾根先の堀切

高城山全体を要塞化か 三隅城

三隅氏の本拠である三隅城(高城)は、いかにも有力豪族の居城という威容と立地だ。標高約362メートルの高城山にあり、中世の港町を見下ろし、陸水交通を掌握している。城は山頂の曲輪群が確認できる程度で全容を知ることはできないが、山全体が要塞(ようさい)化されていたようだ。南側の中腹には三隅氏の菩提(ぼだい)寺である海蔵山雲龍寺がある。

毛利氏対策か? 鳶巣城・井野城と畝状竪堀

三隅城

(この項おわり。次回は7月27日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■鳶巣城(周布城)

http://www.city.hamada.shimane.jp/www/contents/1001000002460/index.html(浜田市)

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

400年の歴史を語る益田氏の名城 七尾城と三宅御土居跡

一覧へ戻る

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

RECOMMENDおすすめの記事