城旅へようこそ

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、島根県大田市の山吹城です。大内氏、尼子氏、毛利氏が争奪戦を繰り広げた石見銀山。その防衛の要となる城でした。
(トップ写真は山吹城の主郭にある石碑)

【動画】山吹城を訪ねて

銀山を制する者が石見を制する

戦国時代の石見を語る上で外せないのが、石見銀山の存在だ。莫大(ばくだい)な銀を産出する石見銀山の領有をめぐり、大内氏、尼子氏、毛利氏などの戦国大名、石見東部の有力領主の間で、激しい争奪戦が勃発。石見銀山一帯には多くの城が築かれ、幾度も戦いが繰り広げられた。

16世紀半ばから17世紀にかけては、日本列島各地で鉱物資源の開発が進められた時期だった。対外貿易による経済・文化の変化に伴い流通経済が大規模化し、貨幣としての金や銀が普及したためだ。領国支配や外交の財源として金や銀が求められ、鉱山開発が活発化。石見銀山も16世紀前半から本格的な開発が開始されたとみられている。

石見銀山支配の歴史は、石見支配の歴史そのものといえそうだ。支配は大きく、1527〜1556(大永7〜弘治2)年の大内氏、1556〜1562(弘治2〜永禄5)年の尼子氏、1562〜1600(永禄5〜慶長5)年の毛利氏時代の3時期に分けられる。大内氏が衰退すると、尼子氏はすかさず毛利氏との争いの末に石見銀山を掌握。やがて、石見東部の領主を巻き込みながら、石見を制した毛利氏が支配権を獲得することになる。

尼子氏と毛利氏との抗争は、石見東部の領主の動きも大きく影響した。1559(永禄2)年(1558年説も)に尼子氏方の小笠原氏が温湯城(ぬくゆじょう、島根県川本町)を攻められ毛利氏に降伏すると、これを機に、毛利勢力は石見銀山にぐっと近づき、周辺での攻城戦も激化している。1561(永禄4)年、毛利氏から離反した福屋氏は没落し、温泉城(ゆのじょう、島根県大田市)を本拠とした温泉氏も敗走。温泉氏が支配していた港町温泉津(ゆのつ)を掌握した毛利氏は勢力を固め、1562(永禄5)年についに山吹城(島根県大田市)の城番である本城常光を降伏させた。石見銀山支配の中心地である山吹城を接収し石見銀山を掌握したと同時に、毛利氏は石見平定を果たしたのだった。

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

左が、1570(元亀元)年に毛利氏が温泉津防衛のため築いた鵜丸(うのまる)城。右は櫛島(くしじま)城

銀山防衛と地域支配の拠点

石見銀山の周辺に築かれた多くの城のうち、地域支配の拠点となっていたのが山吹城だ。銀を産出した仙ノ山の、銀山川を挟んだ北西側、標高414メートルの要害山山頂に築かれている。

石見銀山公園の駐車場から山吹城の登城口まで、30分ほど歩いていく。駐車場から南西側に目をやると遠くに見える、山頂が平らな山が山吹城だ。この急な斜面を登るのかと思うと気がなえるが、山のフォルムはかっこよく、2キロほど離れた駐車場からでもかなりの威容が感じられる。

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

山吹城の遠景

大手門跡登山口から約50分、比高200メートル以上の道のりはハードだが、それだけのかいがある見ごたえある城だ。山頂に南北52メートル、東西32メートルの主郭を置き、主郭の北側には5段、南側には4段の曲輪(くるわ)が階段状に置かれている。主郭には建物の礎石が確認され、北西の張り出し部には櫓(やぐら)が建っていたらしい。張り出し部とその脇の坂虎口(さかこぐち)を守るようにして、主郭北側の曲輪と南側の曲輪は東側の通路で連絡していたようだ。主郭南側の空堀は、幅10メートル、高低差は6メートルあり、堀には木橋がかけられていたと思われる。

大森の町からの見栄え意識か

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

山吹城の主郭

山吹城の大きな特徴は二つ。主郭北側の石垣づくりの虎口と、主郭南側曲輪群の南斜面に掘り込まれた19本の畝状竪堀(うねじょうたてぼり)だ。主郭北側には南側にはない枡形(ますがた)虎口もあり、虎口の周囲は石垣で固められている。主郭からは北東のふもとを見下ろせ、大森の町からの見栄えを意識していると感じられる。主郭南側には馬出しのような戦闘性の高い曲輪もあり、南斜面をびっしりと覆う畝状竪堀と合わせて防御の構えがみられる。

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

主郭北側の虎口

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

主郭南側曲輪群の南斜面にある畝状竪堀

南西方向には2.5km先に石見銀山を防御する矢滝城が見え、石見銀山のある大森から温泉津・仁摩の海岸に至る石見銀山街道温泉津沖泊道(おきどまりどう)をはさんで矢筈城(やはずじょう)が見える。両城の間が、石見銀山街道の最大の難所とされる降路坂(ごうろざか)だ。


大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

山吹城主郭から遠望する、矢滝城と矢筈城

中世と近世が混在したような姿

山吹城は、中世の城と近世の城が混在したような姿が印象的だ。中世の様相を示す畝状竪堀は、本城氏の時代以前に構築されたのだろうか。崩落もあり明瞭(めいりょう)ではないが、尾根上には自然地形に近い曲輪が広がっているようで、駐屯地として確保された空間であることが考えられる。

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

南側尾根先の堀切

これに対して、山頂部の櫓台や虎口は毛利氏が支配した近世初頭の城を思わせる。1578(天正6)年に尼子氏再興を目指した尼子勝久が敗死し尼子氏が滅亡した後、石見一帯は1600年の関ケ原の戦いまで毛利氏に支配され、周辺の諸城で戦いが起こることはなかった。山吹城はその間、石見銀山支配の要の城として機能したとみられている。この頃に改修されたのだろう。主郭南側の空堀も、毛利氏による改修と思われる。ただし、虎口の使い方や巧妙なルート設計は近隣の毛利氏の城に類似例がなく、織豊期の城の技術を導入したものといえそうだ。

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

主郭北側の虎口に残る石垣

毛利氏が関ケ原の戦い後に転封となった後も石見銀山は重視され、江戸幕府の直轄領となった。銀山奉行となった大久保長安は山吹城の改修を命じたとされるが、大森代官所ができると山吹城は廃城になったとみられている。

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

大森代官所跡に建つ、石見銀山資料館

(この項おわり。次回は8月3日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■山吹城
http://iwamiginzan-guide.jp/guidecourse/yama/ymabukijyo-ryugenji/(石見銀山ガイドの会)

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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