城旅へようこそ

吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は島根県大田市の福光城です。物不言城(ものいわずじょう)、不言城という別名のあるこの城は、戦国時代の悲劇の城主・吉川経家ゆかりの城。近くには、今も続く「福光石」の採石場もあるのです。
(トップ写真は現在も稼働している福光石石切り場)

【動画】福光城と、福光石石切り場

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石見銀山めぐる戦いの舞台に

石見銀山の「五百羅漢像」に使われているのは、福光石という凝灰岩だという。島根県大田市温泉津(ゆのつ)町福光の福光城の尾根伝いに、現在も採石が続く採石場があると聞き、福光城とともに訪れた。福光城は<大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城>で触れた石見銀山をめぐる戦いの舞台の一つで、1561(永禄4)年には毛利氏から離反し尼子氏に属した福屋氏に攻められた歴史がある城だ。

福光城の城主といえば、吉川経家を連想する人が多いのではないだろうか。1581(天正9)年に羽柴秀吉が織田信長の命令で鳥取城を包囲した際、臨時の鳥取城主を務めた人物だ。史上最悪ともいわれる籠城(ろうじょう)戦の末に自刃して果てた、毛利氏家臣の石見吉川氏の当主だった。

戦国時代の福光は、福光氏を経て15世紀初頭に周布(すふ)氏が領有。1556(弘治2)年に周布氏が毛利氏に服属すると、毛利元就は1559(永禄2)年に福光を吉川経安に与え、以後は石見吉川氏が福光を拠点とした。経安の嫡男(ちゃくなん)が、前述の経家である。

城内に露頭する岩盤 石積みも

吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

福光城の帯曲輪(おびくるわ)

福光城は、山あいを抜けて日本海へ通じる福光川を見下ろす、標高100メートルの山上に築かれている。標高はさほど高くはないが、日本海に面した平野部に突き出すような丘陵上にあり、周囲がよく見渡せる好立地だ。福光から石見銀山方面へ抜ける街道も通り、石見銀山、温泉津港の押さえとして重要な拠点となっていたことが想像できる。城から温泉津港や日本海を直接望むことはできないが、おそらく福光城の西側約1キロのところにある妙見山城がその監視を担う出城として機能していたのだろう。

吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

福光城の主郭から見下ろす福光川

福光城を訪れると、あちこちに露頭する岩盤が目につく。北麓(ほくろく)の楞厳寺(りょうごんじ)から通じる登山口を登っていくと、主郭への道のりは岩場を伝いながら歩いていくような感覚だ。この尾根筋には、露出する岩肌に紛れて石積みもみられる。

吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

主郭東側の尾根筋

主郭は東側が高く、西側に傾斜している、東側に土塁と思われる高まりがあり、尾根続きとなる東側を防御しているようだ。主郭の西側には尾根に沿って3段ほどの曲輪がひな壇状に連なり、うち西側の二つの曲輪には南側に土塁が設けられている。主郭の南側にも大きい曲輪があり、この曲輪と西から二つめの曲輪をつなぐようにして、細長い帯曲輪が置かれている。

吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

主郭の西側に連なる曲輪


吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

西端の曲輪から主郭方面を見る

東側の尾根筋と同じように、西側の曲輪にもところどころに石積みがみられる。やはり、この山で採れた石が積まれているようだ。主郭東側の尾根先にある上の丸と呼ばれる平坦(へいたん)地付近にも、石積みがあった。印象的なのは、西麓と山頂を結ぶ登城道の途中にある「番所」と呼ばれる場所の石積み。築造時期が異なるようで、主郭付近とは少し異なる積み方になっている。この登城道は本来の大手道とみられ、西麓の平坦地は居館跡とされる。

吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

番所と呼ばれる区画


吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

番所の側面に残る石積み

城から尾根筋に採石場 起源は戦国時代

上の丸東側の尾根筋を縦走するとたどり着けるという、U字形をした尾根の根元部分にあるのが福光石石切り場だ。400年以上続く、現役の石切り場である。これだけ岩盤が露出していれば、採石場があっても不思議はないのだが、訪れてみるとその規模に驚く。聞けば、まだまだ採石が継続できるほど資源は豊富に存在しているという。

福光石は、淡い青緑色をした凝灰岩だ。約1600万年前の火山活動で噴出した火山灰や火山礫(れき)が海底に堆積(たいせき)・固結してできた岩石で、比較的軟らかいため、石像や鳥居、灯籠(とうろう)用に加工されてきた。ぬれると優しい色合いに変化して美しく、江戸時代中期に石見銀山の五百羅漢像に採用された。吸音性、消臭効果などもあり、ぬれても滑らない性質があるため、現在は飾り石や塀のほか、階段や浴室の床などに広く利用され、人々の暮らしを彩っているという。

吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

現在も採石が続く、福光石石切り場

福光石の歴史は戦国時代にさかのぼり、福光に入った吉川経安が大坂から坪内弥惣兵衛という石工を呼び寄せたのがはじまりだそうだ。なんと、子孫ゆかりの有限会社坪内石材店が、今もその技術を継承している。地下へ地下へと深く掘り下げられ続けている石切り場は幻想的な地下空間で、パルテノン神殿のような神秘的な雰囲気すら漂っている。手作業と現代工法、両方の痕跡が混在するのがおもしろい。

吉川経家ゆかりの福光城と、400年続く「福光石」石切り場

下部の規則的なものが近代工法の、上部が手掘りの跡

石材が産出される地域では、城に石積みや石垣がおのずと導入される傾向がある。しかし、福光城には石積みはあるものの、織田・豊臣政権下の城にみられるような本格的な石垣の導入はなかったようだ。大坂から石工を呼び寄せていることからも、石文化が発達した地域ではなかったのだろう。

<大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城>では、山吹城の虎口(こぐち)にみられる石垣は、織豊政権との関わりを持った毛利氏が改修したものと推察した。山吹城の石垣を考察する上でも、福光城の石積みは興味深い比較事例といえよう。福光城の番所に残る石積みの構築時期が、いつまでさかのぼるのかが気になるところだ。

(この項おわり。次回は8月17日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■福光城
https://www.kankou-shimane.com/destination/20554(しまね観光ナビ)

■福光石石切り場
http://yunotsu-onsen.com/news/1634/(温泉津温泉旅館組合)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

大内・尼子・毛利の石見銀山争奪と浮沈 島根・山吹城

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