城旅へようこそ

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は福井市の一乗谷朝倉氏遺跡のうち、山上にある一乗谷城にスポットを当てます。城下町の背後にあり、出城に囲まれた大規模な山城です。
(トップ写真は朝倉居館と、背後の山にある一乗谷城)

【動画】一乗谷城に登ってみた

<戦国大名・朝倉氏の栄華と没落の地 一乗谷朝倉氏遺跡(1)>から続く

谷の北端に下城戸、南端に上城戸

<一乗谷朝倉氏遺跡(1)>で触れたように、一乗谷は、南北に細長い谷間(たにあい)にある。城下町を区画する施設として、北端に下城戸(きど)、南端に上城戸が置かれ、下城戸と上城戸に挟まれた約1.7キロの城戸ノ内に、朝倉館や武家屋敷、町屋や寺院などがつくられ城下町の主要部を形成していた。

下城戸と上城戸は、いわば城下町への出入口だ。「居館跡」「城下町」に次ぐ、一乗谷朝倉氏遺跡の三つ目の着目スポットである。福井市街から車を走らせて、一乗谷に入ったところに現れる石垣が、下城戸の一角。東西の山の間隔が約80メートルにぐんと狭まった、谷の入り口に設けられている。巨石が積まれた枡形虎口(ますがたこぐち)で、道を直進させずクランクして城下町へ入る構造だ。城戸の外側には堀がめぐり、防御の工夫が感じられる。

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

城下町の北端に設けられた下城戸

下城戸とセットで機能していたのが、南端の上城戸だ。長さ105メートルにも及ぶ長大な土塁と堀でできた仕切りのような施設で、堀を掘った際の土と、山裾を削った土を盛り上げてつくられている。土地改良など後世の改変もあり出入り口の場所や正確なルートはわからないが、上城戸の際まで城下町が広がっていたことが判明している。厳密には、上城戸と下城戸の外側にも城下町は展開していたらしい。中世の京都や鎌倉と同じように、町割は10丈(30.3メートル)の倍数を基準としている。

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

上城戸。かなり高い土塁だ

比高400メートル超 一乗谷城は大規模な山城

一乗谷朝倉氏遺跡の四つめの着目スポットとなるのが、居館背後にそびえる標高約473メートルの一乗城山(いちじょうしろやま)に築かれた「一乗谷城」だ。比高400メートルを超える、かなり大規模な山城である。

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

一乗谷城に残る畝状竪堀(うねじょうたてぼり)

一乗谷城は、南北約600メートル、東西約200メートルにおよぶ広範囲に、曲輪(くるわ)群が尾根に沿って配置されている。継続年代が長期間にわたるため、改変や拡張が繰り返された複雑な構造だ。武生の府中守護所までは約20キロあり、朝倉氏が整備した朝倉街道によって結ばれていた。

大きくは北側にある方形の曲輪群と、南側の連続した曲輪群に分かれる。北側の曲輪群は、中心的な屋敷である千畳敷を中心として、観音屋敷、宿直(とのい)、月見櫓(やぐら)などの曲輪が並ぶ。千畳敷は東西30メートル、南北50メートルほどの平坦地(へいたんち)で、礎石建物があったようだ。観音屋敷は三方を土塁で囲まれ、中央には基壇のような高まりがある。

宿直はほぼ現状をとどめ、礎石列も散見される。この一段上が、監視台や見張台として機能したと思われる月見櫓。南斜面には階段状の曲輪があり、その下に腰曲輪がめぐる。千畳敷の北側にある櫓跡の北斜面と宿直周辺の斜面に、畝状竪堀が刻まれているのが印象的だ。とくに千畳敷北側は、2段掘り込まれているようだ。

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

土塁で囲まれた観音屋敷

宿直からは、眼下の一乗谷はもちろん、足羽川(あすわがわ)や福井平野のほか、天気がよければ日本海に面した三国湊(みなと)まで見渡せる。戦国時代には監視の場とされたのだろうと想像が膨らむ。

千畳敷の約30メートル下方には不動清水と呼ばれる水源があり、現在も水を湛えている。下方には大手門跡があり、この道筋が大手道だったようだ。山麓(さんろく)の馬出から大手門に至る山腹には小見放城(こみはなちじょう)と呼ばれる出城もあり、広範囲に手を入れた防御性の高さがうかがえる。小見放城は堀切を用いて尾根の高まりを独立させ、4段の曲輪を置く。周囲には竪堀が掘り込まれている。

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

宿直。西側には眺望が広がる

見ごたえ抜群の畝状竪堀

南側の曲輪群は、三の丸を最高所として、約300メートルにわたる尾根上に二の丸と一の丸が連なる。曲輪間を分断する大きな堀切、東斜面全体に掘り込まれた無数の畝状竪堀が圧巻で、見ごたえ抜群だ。南端の堀切は10メートル以上ありそうな規模。二の丸から続く西の尾根上には、伏兵地と伝わる凹地が多数ある。三万谷や上城戸へ下りる尾根には二重の堀切も施されている。

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

一の丸と二の丸の間の堀切


城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

三の丸南側の堀切

周囲には多くの出城も

一乗谷城を防御するように、周囲には多くの支城(出城)が築かれていた。一乗谷西峰の御茸山(みたけやま)と尾根続きの槇山(まきやま)にある、東郷槇山城もそのひとつだ。

同じく一乗谷城の支城である成願寺城(じょうがんじじょう)とは足羽川を挟んで対面にあり、二つの城は一乗谷に下城戸側から侵入する敵を食い止める重要な位置にある。こうした、周辺の支城群も合わせてみていくと、一大拠点・一乗谷のすごさがわかっておもしろい。東郷槇山城から御茸山までの間には4か所の堀切があり、一乗谷との密接な関係性がうかがえる。

槇山城は最高所に城台と呼ばれる曲輪を置き、南側の千畳敷との間に二の丸を置く。朝倉正景の居城とされ、朝倉氏以後に入った豊臣秀吉家臣の長谷川秀一により石垣づくりの城に改修され、主要部が南側の尾根上に移行したようだ。公園化でだいぶ改変されているが、千畳敷の南東側に土塁が残り、その南側に二重の堀切がある。城の大手は三社神社のある北側だったとみられ、屋敷跡と思われる5段の平地がある。

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

東郷槇山城。尾根伝いに一乗谷に通じる

近年、一乗谷朝倉氏遺跡の北側にある安波賀中島町の水田から、戦国時代の船着場や荷揚場とみられる石敷き遺構が見つかった。城下町と一体化した港湾施設が確認されたのだ。足羽川に通じる入り江だったと推定され、一乗谷の城下町が成立した後は、三国や敦賀から入る品も扱われ、大いに栄えたと考えられる。朝倉孝景が一乗谷と城下町の建設に着手する前、南北朝時代には安波賀に城戸が築かれていたようだ。

明智光秀をまつる明智神社

下城戸がある北側が正面と思える一乗谷だが、地元では上城戸のある南側が「オモテ」と呼ばれ、戦国時代も上城戸側が正面と認識されていた。越前国府から京へと通じる方角だ。一乗谷から大手道と呼ばれる峠道を越えると、朝倉街道へ出る。その大手には東大味館があり、明治時代の地籍図では「土居之内」という字名が見られ、土塁と堀で囲まれた約80メートル×約65メートルの方形の区画が確認されている。

城下町の背後にそびえる要塞・一乗谷城 一乗谷朝倉氏遺跡(2)

明智光秀居住伝承地に建つ、明智神社

方形の区画の中央あたりには明智神社が建ち、通称「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠(ほこら)に、明智光秀の坐像が奉られている。地元では、光秀一家は1562(永禄5)年から1567(永禄10)年までここ東大味地区に住んでいたという説が伝わるのだ。神社近くの古刹(こさつ)・西蓮寺には、柴田勝家・勝定が発給した住民を保護する安堵(あんど)状が伝わり、光秀が東大味を慮(おもんぱか)り頼んだものと考えられている。そうした光秀の遺徳をしのび、明智屋敷跡に住む3軒の農家は光秀の秘仏を守り、やがて祠を立てたそうだ。

江戸時代に編纂(へんさん)された「城跡考」には三つの屋敷跡が記されており、そのひとつが「明智日向守(光秀)」である。見つかった堀や土塁が光秀の館のものかはわからないが、明智神社光秀居住伝承地のひとつとして注目のスポットだ。

(この項おわり。次回は9月14日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■一乗谷朝倉氏遺跡
http://fukuisan.jp/ja/asakura/index.html(福井市文化遺産ホームページ)

http://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/(一乗谷朝倉氏遺跡資料館)

>> 連載一覧へ

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

戦国大名・朝倉氏の栄華と没落の地 一乗谷朝倉氏遺跡(1)

一覧へ戻る

信長最大のピンチ「金ケ崎の退き口」と光秀 金ケ崎城と天筒山城

RECOMMENDおすすめの記事