城旅へようこそ

信長最大のピンチ「金ケ崎の退き口」と光秀 金ケ崎城と天筒山城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は福井県敦賀市の金ケ崎城と天筒山城です。織田信長最大のピンチと言われる浅井・朝倉両軍の挟み撃ちからの撤退戦「金ケ崎の退(の)き口」の舞台です。
(トップ写真は天筒山城からの景観。尾根続きの手前右側先端が金ケ崎城)

【動画】金ケ崎城と天筒山城

1568(永禄11)年、織田信長は足利義昭を迎えて上洛。室町幕府13代将軍・足利義輝を死に追い込んだ三好三人衆は阿波に逃げ、松永久秀らは信長に降った。ところが1569(永禄12)年、三好三人衆が15代将軍となった義昭を襲撃。「信長公記」には、それを防いだ者のなかに「明智十兵衛」の名が記されている。

この働きが信長に認められたようで、明智光秀は信長の家臣に取り込まれ、義昭と信長の両方から知行をもらう立場となった。信長としては、光秀に義昭の監視役を期待していたのではないだろうか。義昭に近しかった光秀としては、複雑な立場になったと思われる。

義昭はやがて信長と敵対し、1573(天正元)年には京都を追放されることになる。両者の対立が本格化したのが、1570(元亀元)年の越前・朝倉攻めだ。

1570年4月、義昭の上洛命令に応じなかった朝倉義景を追討するため、信長は越前へ向けて京都を出発した。近江の坂本を通過して和邇(わに)に陣を取り、田中城(滋賀県高島市)に宿泊。熊川城(福井県若狭町)、国吉城(福井県美浜町)を経て、5日後には敦賀に侵入した。そして妙顕寺に本陣を構えると、一気に天筒山城(てづつやまじょう、福井県敦賀市)を陥落させたのだ。

信長は天筒山城を攻略した翌日にも、天筒山城と尾根続きにある金ケ崎城に攻め込むはずだった。ところが金ケ崎城にこもる朝倉景恒は、降参して府中に退去。さらには、近江・越前の国境にある疋壇城(ひきだじょう、福井県敦賀市)の朝倉勢も撤退した。そのため信長は、金ケ崎城に木下藤吉郎(秀吉)、光秀、池田勝正らを残し、金ケ崎城を改修すべく職人を呼び寄せる手はずを整えた。木ノ芽峠を越えて、一気に越前中心部に迫る計画だったようだ。

信長最大のピンチ「金ケ崎の退き口」と光秀 金ケ崎城と天筒山城

天筒山城の主郭。現在は公園となっている

しかしそのとき、青天の霹靂(へきれき)ともいえる知らせが信長のもとに届いた。妹婿の浅井長政が信長に反旗を翻したのだ。離反の理由は諸説あり定かではないが、とにかく信長が挟撃されるのは必至。絶体絶命のピンチに陥った信長は総退却を決め、わずかな兵を引き連れて命からがら京へと逃げ帰った。これが、「金ケ崎の退き口」と呼ばれる退却戦である。このとき殿(しんがり)を務め活躍したのが、秀吉と池田勝正、そして光秀だったとされている。

信長最大のピンチ「金ケ崎の退き口」と光秀 金ケ崎城と天筒山城

金ケ崎城の登城口。金崎宮には尊良親王が祀られる

金ケ崎城と天筒山城は尾根伝いにあり、セットで成り立つ城だったようだ。JR敦賀駅の北東にある標高171.3メートルの天筒山山頂に天筒山城が築かれ、そこから敦賀湾に突き出すように北西方向にのびる尾根の先端に、金ケ崎城が築かれていた。実際に訪れると、天筒山城の主郭からは尾根先の金ケ崎城が見える。天筒山城を落とされては、なすすべはなく、朝倉勢が戦わずして退去したのもうなずける。

敦賀は弥生時代から活発な交流がうかがえ、古墳時代には天筒山尾根上の舞崎古墳群など多くの古墳ができた。豊富な出土遺物も、交通の要衝だった重要性を示している。平安時代末期には日宋貿易が盛んに行われるなど、古代を通じて国際港となっていたようだ。中世に入ると、日本海側諸国と都の物流拠点、北陸道攻略の起点としての重要性から、戦国時代には朝倉氏によって敦賀郡司が置かれるなどした。若狭、近江、越前からの要路が集合して四散し、かつ海上交通の発着地点でもあった。金ケ崎城と天筒山城も、港と一体化した城だったのだろう。

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金ケ崎城の遠景。背後の尾根の先端にある

現在、金ケ崎城の中腹には、金崎宮(かねがさきぐう)がある。ここから金ケ崎城へと歩き、尾根上の遊歩道を経由して天筒山城を目指すルートが一般的だ。金ケ崎城は改変が激しく全容はわからないが、北端にある月見御殿と呼ばれる曲輪(くるわ)が本丸に相当すると思われる。北半分が削り取られているが、敦賀湾を制圧した気分になれる見事な眺望が楽しめる。

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月見御殿からの眺望

月見御殿から天筒山城までの尾根上にはいくつもの堀切が穿(うが)たれている。三の城戸、二の城戸、一の城戸それぞれの城戸跡に残る大堀切が、大きな見どころだ。南北朝時代の戦いが記された「太平記」にも、一の城戸と二の城戸の陥落についての記述があり、防御上の要だったことがうかがえる。月見御殿の東側から三の城戸の北までのあたりは水の手で、清水が湧き出ていたらしい。

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尾根上に設けられた、二の城戸に残る堀切

見逃せないのは、二の城戸付近の北側斜面を覆う畝状竪堀(うねじょうたてぼり)だ。戦国時代の城らしさがそのまま残る、唯一の遺構といえる。来襲に備えてやはりこれほどの防御施設を築いていたのだ、と感慨深くなる。

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二の城戸の北側に残る、畝状竪堀


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畝状竪堀は北側斜面を覆っている

天筒山城は最高所を主郭として、派生する尾根上にいくつもの曲輪群が設けられていたようだ。公園となっている主郭に建つ展望台からは周囲を一望でき、交通の要所であることが実感できる。浅井勢が侵攻する南側の山間ルート、信長が撤退した南西側の関峠方面、朝倉勢が迫る東側のルートなどが見え、「金ケ崎の退き口」の緊張感あふれる攻防に思いをはせられるのも魅力だ。

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金ケ崎城と天筒山城の間にある、大規模な堀切


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天筒山城から望む東側の眺望

(この項おわり。次回は9月28日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■金ケ崎城
http://www.turuga.org/places/shiroato/shiroato.html
(一般社団法人 敦賀観光協会)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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