永瀬正敏フォトグラフィック・ワークス 記憶

(76) そして、赤ちゃんはこの後 永瀬正敏が撮った台湾

国際的俳優で、写真家としても活躍する永瀬正敏さんが、世界各地でカメラに収めた写真の数々を、エピソードとともに紹介する連載です。つづる思いに光る感性は、二つの顔を持ったアーティストならでは。今回は、台湾・嘉義市で撮った街の情景。大泣きしている赤ちゃんは、このあと……。

(76) そして、赤ちゃんはこの後 永瀬正敏が撮った台湾

©Masatoshi Nagase

目の前に止まった車の中から、女性が車内を気にしつつ飛び出してきた。
彼女は慌てて車のすぐ脇の店に入っていった。

その車の横を通り過ぎようとした時、車内から泣き声のようなものが聞こえた気がした。
ふと足を止め、車内をのぞき込むと、
助手席で手足を精いっぱい伸ばしながら大声で泣いている赤ちゃんがいた。

思わず1枚だけ写真を撮った。
そして先ほどのお母さんが戻ってくるまで、その車の近くにいた。
赤ちゃんは全く泣きやまない。体をよじりながらお母さんを待っている。

ちゃんとチャイルドシートが設置されていて、シートベルトもキチンと装着されているので、
決してなおざりにされているのではないと思う。
でも暑いし、やはり気になって、僕はその子に手を振ったりしながら待っていた。

結局お母さんはすぐに戻ってきた。

すると嵐のように泣いていた赤ちゃんは本当に一瞬で泣きやんだ。
涙が滝のように流れていたほおは、もうニッコニコの笑顔でクシャクシャだ。

お母さんは優しく赤ちゃんをハグして、メガネをかけ車を発進させた。

ほんの数分の出来事だったが、僕はホッとした。
そしてすぐに、泣き顔の1枚だけじゃなく、笑顔に戻った姿を撮影すればよかったと、後悔した。

台湾・嘉義市にて

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PROFILE

永瀬正敏

1966年宮崎県生まれ。1983年、映画「ションベン・ライダー」(相米慎二監督)でデビュー。ジム・ジャームッシュ監督「ミステリー・トレイン」(89年)、山田洋次監督「息子」(91年)など国内外の約100本の作品に出演し、数々の賞を受賞。カンヌ映画祭では、河瀬直美監督「あん」(2015年)、ジム・ジャームッシュ監督「パターソン」(16年)、河瀬直美監督「光」(17年)と、出演作が3年連続で出品された。近年の出演作に常盤司郎監督「最初の晩餐」、オダギリジョー監督「ある船頭の話」、周防正行監督「カツベン!」、甲斐さやか監督「赤い雪」など。写真家としても多くの個展を開き、20年以上のキャリアを持つ。2018年、芸術選奨・文部科学大臣賞を受賞。

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