城旅へようこそ

信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は福井県美浜町の国吉城です。越前朝倉氏の攻撃を10年にわたって防いだと伝わる「難攻不落」の城で、織田信長の越前侵攻時にも大きな役割を果たしました。
(トップ写真は国吉城の二ノ丸に残る、喰違〈くいちが〉い虎口と高土塁)

信長の越前退却の助けに

明智光秀が木下藤吉郎(豊臣秀吉)とともに殿(しんがり=敵の追撃に備える最後尾の部隊)を務め、功績を残した1570(元亀元)年の「金ケ崎の退(の)き口」。全軍の総退却はかなりの混乱を来したが、撤収は迅速で、敵方の攻撃はそれほど執拗(しつよう)ではなかったようだ。越前の大軍が近江に進発するのは織田信長が敦賀を発ってからだいぶ後で、朝倉義景・浅井長政軍はこれほど信長を追い詰めながら結局のところ取り逃がしてしまったことになる。

しかしこれは結果論で、挟撃必至となった信長の退却劇は命がけの厳しいものだった。信長は、急ぎ敦賀を撤退すると往路と同じルートを引き返し、若狭の佐柿を抜け、国吉城主の粟屋勝久らの案内を受けて若狭街道を通り近江の朽木へ逃れた。侵攻ルートと同じく疋田から近江の海津を経て京へ向かうのが最短コースだったが、海津にはすでに浅井長政の軍勢が控えていたため、山間を抜ける険しい朽木越えを選んだとみられる。朽木谷では、松永久秀を介して朽木元綱が信長を迎え、道を案内。4月25日に浅井長政離反の知らせを受けた信長が帰京したのは4月30日の夜で、信長に従っていた者はわずか10人ばかりだったと「継芥記(けいかいき)」に記されている。

信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

江戸時代に築かれた朽木陣屋跡。背後は詰城の西山城

朝倉氏の攻撃に10年も耐えた城

このルートで注目したい、見ごたえのある城が国吉城(福井県美浜町)だ。越前朝倉氏の攻撃に約10年も耐えた「難攻不落の城」として知られる。信長の侵攻・退却ルートになったのも、長年にわたって朝倉氏の攻撃を受けたのも、その立地の重要性あってこそだ。

国吉城は若狭の東端部に位置する、越前との国境にある城だ。若狭守護・武田氏の本城である後瀬山城(福井県小浜市)と連携する、国境を守る最前線の支城といえる。越前から若狭に通じる丹後街道が眼下を通り、腰越坂と椿坂をのど元に押さえる標高197.3メートルの通称「城山」に築かれている。山上からは国境となる関峠が見える。

国吉城は、武田氏の重臣だった粟屋勝久が1556(弘治2)年に築城したとされる。武田氏の当主の座をめぐる争いをきっかけに、越前の朝倉氏と敵対。国吉城は1563(永禄6)年に朝倉氏に単独で攻め込まれ、1573(天正元)年に朝倉氏が滅亡するまで幾度となく激戦の舞台となったと「国吉籠城(ろうじょう)記」に記されている。

3時期にわたる石垣が見どころ

この城の重要性は、近年の発掘調査で発見された遺構も物語っている。国吉城の大きな見どころとなる、「粟屋期」「木村期」「京極期」の、3時期にわたる石垣がそのひとつだ。

信長の没後に武田氏は滅亡し、若狭は秀吉家臣の丹羽長秀の支配下となった。粟屋勝久はその配下となり、引き続き国吉城に在城している。秀吉と越前の柴田勝家の対立が深まり、やがて1583(天正11)年に賤ケ岳の戦いが勃発。若狭街道は勝家の侵攻ルートとして想定されたため、国吉城は引き続き緊迫したと思われる。賤ケ岳の戦いの後は、家臣の木村定光が入城。その後は、浅野長吉(長政)、木下勝俊、京極高次が若狭の国主となり、国吉城には彼らの重臣が城代として置かれた。京極氏が1634(寛永11)年に転封となると、譜代大名の酒井忠勝が若狭に入り、南麓(なんろく)に佐柿町奉行所と御茶屋屋敷がつくられた。城内の石垣にみられる、上部が崩され下部が埋められた痕跡は、この際のものと思われる。

戦国時代の城は、存続させる必要がなければ廃され、重要視されなければ手を入れることはない。そうした中で、改変された痕跡のある国吉城は、機能し続けた重要な城だった。土づくりの山城から総石垣の山城に変貌(へんぼう)し、やがて破壊されるまでの変遷がたどれる、ロマンあふれる城でもある。

信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

山上にある、粟屋期または木村期とみられる石垣

主要部は総石垣の城に変貌か

興味深いのは、山麓と山上の主要部が総石垣の城へと変貌していた可能性が高いことだ。発掘調査により、かなり広範囲に石垣が確認されている。とくに、帯曲輪(おびくるわ)の側面に階段状に積まれた石垣、石垣で固められた本丸の2カ所の枡形虎口(ますがたこぐち)に目を見張る。また、本丸北西側の虎口では巨大な礎石や鏡石が発見され、大規模な礎石建物跡も見つかっている。

信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

本丸北西側の枡形虎口

こうした城の姿は、織田・豊臣政権の城の特徴をとらえている。本丸付近の石垣には粟屋氏による改修も含まれそうだが、少なくとも総石垣の姿は粟屋氏の時代ではなく、秀吉の家臣である木村定光が改修した姿だろう。木村定光は歴代城主で唯一の大名領主だが、城の改修はあくまで領国統治の一環として行われたようだ。国吉城の位置付けが社会情勢とともに変化していった様子がうかがえるのもおもしろい。

山麓の居館跡には木村期とともに京極期と推定される石垣が混在し、1601(慶長6)年以降の京極氏の改変と城の存続を物語っている。山上からは今のところ京極期の石垣や遺物は見つかっておらず、関ケ原の戦い以降は山上の城は使わず山麓の居館だけが機能したようだ。

信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

帯曲輪の、粟屋期と思われる石垣


信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

山麓の、居館最下段の石垣

戦国時代の山城の姿も堪能

大きな見どころは石垣だが、戦国時代の山城の姿を堪能できるのもたまらない。山頂に本丸を置き、北側の尾根上には巨大な堀切を挟んで5段の連郭曲輪群が連なる。後瀬山城を連想させる、地形の使い方や縄張だ。南西方向の尾根先も曲輪が展開し、中腹には二ノ丸がある。喰違い虎口や高土塁がよく残り、見ごたえ抜群だ。戦国時代の山城の縄張を読み解く楽しみ方ができるのも、国吉城の大きな魅力といえよう。朝倉氏が築いた狩倉山の付城や中山の付城などの付城群が見渡せ、一触即発の緊張を感じ取ることもできてたまらない。

信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

本丸北側の尾根に展開する、連郭曲輪群


信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

中腹にある二ノ丸


信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

山頂からは、丹後街道や付城群が見える

天守の存在は今のところ確認されていないが、主郭南隅に高まりがあり、建物が建っていた可能性があるようだ。国吉城付近で車を走らせていると、南山麓と北山麓のどちらから近づいても、山そのものに行く手を阻む壁のような威圧を感じる。山頂に天守に匹敵する建物が建っていれば、さぞ威容を放っていただろう。

信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城

本丸の南隅にある櫓(やぐら)台らしき高まり

(この項おわり。次回は10月5日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■国吉城
http://www.town.mihama.fukui.jp/www/section/detail.jsp?id=515
(若狭国吉城歴史資料館)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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