城旅へようこそ

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は坂本城(大津市)と大溝城(滋賀県高島市)です。いずれも琵琶湖に面した水城で、坂本城は明智光秀が築き、大溝城は光秀の娘婿・織田信澄の城でした。織田信長の琵琶湖支配戦略のうえで重要な城だったのです。
(トップ写真は大溝城に残る天守台)

【動画】坂本城と大溝城

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坂本城、比叡山監視や上洛ルート確保狙い築城

1571(元亀2)年9月、織田信長は比叡山延暦寺を焼き打ちした。その直後、明智光秀が志賀郡の支配拠点として比叡山の麓(ふもと)に築いたのが坂本城(大津市)だ。制圧した比叡山の監視、湖西地域の反信長勢力への牽制(けんせい)、信長の京都への上洛ルートの確保、琵琶湖の水運を押さえることが主たる目的だと考えられる。

注目したいのは、光秀が信長から志賀郡を与えられたうえで坂本城を築いていることだ。信長が能力本位で人材を抜擢(ばってき)したことを踏まえると、この登用は光秀への評価といえるのだろう。

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

坂本城の本丸石垣(立ち入り禁止)


光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

坂本城の本丸石垣(立ち入り禁止)

残念ながら、現在は坂本城の面影を残すものはほとんどない。光秀の石像が立つ坂本城址公園は坂本城の敷地内ではなく、本来の坂本城は公園から約110〜240メートルほど北側に本丸を置き、本丸の西側に、内堀を挟んで二の丸、中堀と北国街道を挟んで三の丸、その外側に外堀が並んでいたと考えられている。

唯一の遺構は、琵琶湖底にある本丸の石垣だ。琵琶湖の水位が下がると、わずかに見ることができる。1994(平成6)年の琵琶湖の大渇水時には、石垣の根石(一番下の石)と根石を支える胴木が確認された。

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

干上がった琵琶湖の湖底から現れた坂本城の石垣 =1994年8月25日、朝日新聞社・村上潤治撮影

安土城に先行する天守が存在か

特筆すべきは、光秀と親交のあった吉田兼見が『兼見卿記』に記した、信長の安土城(滋賀県近江八幡市)に先行する天守の存在だ。1572(元亀3)年の記述に「天主(天守)の作事」とある。安土城の築城開始は1576(天正4)年のこと。日本初の天守とされる安土城天主より先に、坂本城に天守が築かれていた可能性が高い。

宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には「明智の城は豪壮華麗で、信長の安土城に次ぐ名城だった」と記されている。坂本城が、信長が開発を推し進める新時代の城と肩を並べる最先端の城であったことは間違いなさそうだ。あくまで信長政権の城のひとつであり、安土城の試作品ともいうべき面もあっただろう。『日本史』には「すぐれた築城手腕の持ち主」とも記されており、光秀が築城名人として評価されていたこともうかがえる。

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

坂本城の石碑

坂本城の位置付けを考えるとき、信長の支配体制の一翼を担う城であったことも見逃せない。信長は1576年から琵琶湖の東岸に安土城を築くが、これに先立ち、光秀に坂本城、羽柴秀吉に長浜城(滋賀県長浜市)を築かせ、1578(天正6)年には安土城の対岸に大溝城(滋賀県高島市)を築城して甥(おい)の織田信澄を城主としている。これらの四つの城を結ぶことで、琵琶湖を活用した軍事的なネットワークを構築していたと考えられているのだ。琵琶湖を統一支配下に置き、軍事的・経済的に交通の要衝である琵琶湖支配体制を整えたと思われる。信長の政権下における、光秀の立場が垣間見える。

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

坂本城本丸跡から望む琵琶湖。近江富士と呼ばれる対岸の三上山まで見える

光秀の娘婿、織田信澄の大溝城

坂本城とともに「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担ったとされる大溝城は、琵琶湖の内湖である乙女ケ池を取り入れた水城だった。城主の織田信澄は明智光秀の娘婿で、大溝城の縄張(設計)は光秀によると伝わる。現在の高島総合病院の東側に残る天守台は、かつては琵琶湖に通じる水堀に面していたようだ。

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

大溝城の天守台、東面


光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

北西側から見る、大溝城の天守台


光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

大溝城の天守台、北東隅部

近年の調査から、本丸は東西約52メートル×南北57メートルと推定され、1664(寛文4)年の「大溝城下古図」に描かれている通り、本丸の南東角に、堀と接するように天守台があったことがわかった。興味深いのは、本丸北端にある階段状の施設だ。琵琶湖から本丸に直接上がれる船着き場の可能性があるという。江戸時代の絵図には階段はないが、本丸に直接通じるということは、城主の出入りも想定され、琵琶湖を経由した移動を意識した城であったのだろう。過去には安土城と同じ文様の軒丸瓦(のきまるがわら)や同型の瓦も見つかっており、信長の深い関与が感じられる。

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

大溝城天守台。大きな自然石を積み上げている

なんといっても、大溝城の天守台は見事で、何度訪れても感激してしまう。全国でも希少な天正期の築造と考えられる石垣だ。大きな自然石を組み合わせた野面(のづら)積みで、隅角部にある、長方形の石の長辺と短辺を交互に重ねる算木(さんぎ)積みも未成熟で味わいがある。

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

大溝城の天守台、西面

(この項おわり。次回は10月26日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■大溝城
http://www.city.takashima.lg.jp/www/contents/1134378250697/index.html(高島市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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