城旅へようこそ

明智光秀が籠城? 新発見で話題の滋賀県・田中城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は滋賀県高島市の田中城(上寺城)です。明智光秀が籠城(ろうじょう)したとされる文書が近年見つかり、話題の城です。
(トップ写真は田中城主郭北西側の尾根先端にある堀切)

【動画】田中城を歩く

信長に攻撃され、光秀の支配下に

滋賀県高島市の田中城は、「信長公記」に数回登場する。まず、1570(元亀元)年4月に、朝倉義景を討伐に向かった織田信長が宿泊した記録だ。次に、1572(元亀3)年に朝倉・浅井連合軍と戦うため北近江に出陣した信長が攻めた記述。田中城は浅井長政の勢力下にあったためだ。このとき、足利義昭や信長に従っていた明智光秀も、田中城の周辺に陣城を設けて監視したとされている。そして、1573(元亀4)年7月、信長による高島攻略の記載だ。田中城は信長に攻撃され、光秀の支配を受けて終焉(しゅうえん)を迎えた。

観音堂下段の曲輪群、北側にある堀切

観音堂下段の曲輪(くるわ)群、北側にある堀切

光秀が登場する最古級の文書が「籠城」と記す

近年、田中城は大きな話題となった。1566(永禄9)年10月に坂本で書き写されたとされる、熊本藩次席家老の米田家に伝わる医学書「針薬方」の奥書に「明智十兵衛」の名が確認されたのだ。文献上に光秀が登場する最古級の発見で、「高嶋田中籠城之時」とあり、光秀が田中城に籠城したと解釈される。

この記述に従えば、少なくとも1566年以前に光秀が田中城に籠城していたことになる。光秀がどの立場で田中城に籠城していたかは定かではないが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようだ。<光秀の居城・坂本城と「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城>で述べたように、光秀は1571(元亀2)年には志賀郡を拝領する。湖西を任された背景には、光秀が古くから湖西と関わりがあったことが関係しているのかもしれない。

「高島七頭」の田中氏の城

田中城は、中世に高島地域を支配した武士団「高島七頭(しちがしら)」の一角、田中氏の城だ。鎌倉時代、近江守護の佐々木信綱の二男、高信が高島郡田中郷の地頭となると、戦国時代末期にかけて、高信を祖とする西佐々木一族がこの地を治めた。西佐々木(高島氏)一族は、越中氏、朽木氏、田中氏、山崎氏、横山氏、永田氏、平井氏に分かれ、「高島七頭」を形成して西近江に勢力を張っていた。

城は、高島平野の西方に広がる泰山寺野台地から、舌状にのびる丘陵の先端部の標高220メートル地点に主郭を置く。高島平野南部と琵琶湖、琵琶湖対岸の湖東平野まで望める立地だ。築城時期は定かではないが、16世紀中頃、衰退した松蓋寺(しょうがいじ)寺坊跡を改修して築かれたと考えられている。

松蓋寺の遺構とされる観音堂

松蓋寺の遺構とされる観音堂

山寺を改良した寺の特徴が

実際に訪れてみると、思いのほか城域が広く驚いた。城は、谷の斜面に広がる広大な曲輪群と山頂の主郭部に大別される。東斜面に広がる曲輪群も、平坦(へいたん)地が山裾の方まで広がっており、中心部と山裾とで様相が異なる印象だ。土塁で方形に区画された平坦な曲輪が階段状に連なっているが、これらは近江の城によく見られる、山寺を再利用したものと思われる。谷筋の再奥には観音堂があり、これが松蓋寺の遺構という。周囲に土塁や堀を追加しながら、家臣の屋敷地を広げていったようだ。

東斜面に広がる曲輪。土塁で仕切られながら階段状に連なる

東斜面に広がる曲輪。土塁で仕切られながら階段状に連なる

曲輪群は山裾の方まで広がり、並列的に段差をつけながら平坦面が連なる。曲輪を仕切る土塁はどこか後付けのような印象もあり、形状が明瞭(めいりょう)な虎口(こぐち)からも改良の気配が感じられる。江戸時代の地誌「近江興地志略」(おうみよちしりゃく)には「この城、上の城と号し、南市村城を下の城と称す」とあり、ふもとの集落一帯が下の城で、田中氏の館が存在していたと考えられそうだ。

「武者隠し」の強烈な迎撃態勢

北東斜面にある武者隠し

北東斜面にある武者隠し

曲輪は北東斜面や南西斜面にも広がっている。印象的なのは、北東斜面の尾根上にある、長大な土橋と連携した「武者隠し」と呼ばれるスペース。土橋の築造時期はよくわからないが、山麓から長い土橋を抜けて曲輪群に取り付こうとする空間に設けられた段構えの武者隠しからは、強烈な迎撃の構えが感じられる。城兵は、土橋を見下ろすように曲輪群に待機し、一斉射撃できる。敵兵の目線で土橋側から曲輪群へ向けて登ってみると、傾斜に手こずり、武者隠しは死角になる。観音堂下段の曲輪群の北側にある堀切も、大きくてインパクトがあった。

土橋から見上げる曲輪群。右上に武者隠しと呼ばれる平坦地がある

土橋から見上げる曲輪群。右上に武者隠しと呼ばれる平坦地がある

山上の曲輪群は、最高所に主郭と思われる曲輪を置き、南東~北西方向にのびる尾根筋に曲輪群を置く。松蓋寺の背後の尾根を取り込んで城域を拡張し、周囲に見通しがきく防御施設を整備した印象だ。南東端の曲輪からは高島方面を一望でき、主郭からは山麓(さんろく)の安曇川(あどがわ)流域の平野が見下ろせ、さらに琵琶湖の対岸まで見渡せる。

主郭からの眺望。天気がよければ琵琶湖対岸まで見える

主郭からの眺望。天気がよければ琵琶湖対岸まで見える

主郭の西側には土壇のような高まりがあり、その西側は切岸が削り込まれ、横堀がめぐっている。不思議なことに、最高所にはつぶて石と推定される投石用の小石が集積されていた。南側に、土塁囲みの虎口がある。

主郭西側には高まりがあり、つぶて石が散乱する

主郭西側には高まりがあり、つぶて石が散乱する

細い尾根筋の先に大きな堀切

主郭背後の横堀

主郭背後の横堀

印象的なのは、主郭の北西方向の尾根筋だ。かなり細い尾根筋に通路が続き、その先に幅13メートルほどの大きな堀切が設けられていた。この尾根先に通じる泰山寺野台地への警戒なのだろう。主郭の南東側の尾根筋にも細い尾根上に通路があり、堀切が設けられている。

主郭の北西方向の尾根筋にある細い通路

主郭の北西方向の尾根筋にある細い通路

田中城は、武家勢力が山寺を改修してできた城として興味深い。次回は、同じく「高島七頭」の越中氏の城、清水山城を歩こう。

(この項おわり。次回は11月2日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■田中城
https://takashima-kanko.jp/spot/2018/06/post_105.html(公益社団法人 びわ湖高島観光協会)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

光秀の居城・坂本城と、「琵琶湖ネットワーク」の一翼を担う大溝城

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信長に攻められ落城した「高島七頭」越中氏の城  滋賀県・清水山城

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