日光の滝から川を越え那須塩原へ 旅行作家・下川裕治がたどる「奥の細道」旅3

下川裕治さんが、松尾芭蕉の「奥の細道」の行程をたどる旅。前回は千住から日光にたどり着き、東照宮を目指しました。今回は山を登り、田畑を抜け、目的地へと歩きます。芭蕉の脚力に舌を巻く下川さんの体には変化が……。
(写真:阿部稔哉)
奥の細道を歩く・日光から那須塩原へ
「奥の細道」をたどる旅の3回目は、日光を出発して那須高原のふもとを横切り、大田原市から那須塩原市まで進む。日光を出発した芭蕉は、奥州街道へと向かう。日光街道との分岐である宇都宮には戻らず、ほぼ西に向かう。できるだけ歩く距離を短くしたい……というのは、旅人なら当然のこと。ショートカットしたわけだ。しかし人通りも少ない道にわけ入っていくからトラブルも浮上してくる。僕らもそのルートを進んだが、交通の便は一気に悪くなる。路線バスを丹念に検索していったのだが、本数が少なく、なかなかうまい行程がつくれない。レベルは違うが、旅の不便さは、300年以上たっても変わらないということか。
「奥の細道」は、1689年、松尾芭蕉が約150日をかけ、東京(江戸)から東北、北陸などをまわった紀行文。馬や船も利用しているが、基本的には歩き旅である。発刊は芭蕉の死後の1702年。
短編動画1
裏見ノ滝を眺めながら、芭蕉が詠んだ「暫時(しばらく)は滝に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじめ)」。僧が夏の間、寺にこもって修行する安居(あんご)が下敷き。この安居は夏籠(げこもり)とか、夏行ともいわれる。「滝の裏側の通路で、いっとき籠もってみた」ともとれるし、奥の細道の旅自体を夏籠に見立て、そのはじまりと解釈することもできる。
短編動画2
「かさねとは八重撫子(なでしこ)の名なるべし」は、あえて説明を加えなくてもいい気がする。かさねと名乗る小さな女の子に出会ったときの句だ。曾良の句になっているが、研究者の間では芭蕉の作と考える人が多い。
今回の旅のデータ
日光から那須塩原まで東武鉄道やJRを使えば造作もない乗り継ぎになるが、日光から大田原方面まで芭蕉の歩いたルートに沿う道筋になると、一気に面倒になる。途中にある塩谷町、矢板市、大田原市などの路線バスを乗り継いでいくことになる。それぞれのバスが接続しているわけではないので時間もかかる。日光から東武鉄道で新高徳駅まで出て、そこからしおや交通の路線バスで矢板駅まで。大田原市までは歩いて進んだ。大田原市にたどり着いたときには、日はとっぷりと暮れてしまっていた。
日光から那須塩原へ「旅のフォト物語」
Scene01
朝、裏見ノ滝へ。「奥の細道」は旅人の本だと思う。芭蕉が興味のない場所は、訪ねていても無視したり、触れてもあっさりとした記述だったり。自分の旅の記憶を文にしている。東照宮も熱意がない書き方で、当時すでに訪ねる人もいた華厳ノ滝にも行っていない。遠かったのかもしれないが。で、訪ねたのがマイナーな裏見ノ滝。滝の手前は急な山道だった。
Scene02
裏見ノ滝への道はそこそこきつかった。坂道を1時間近く登った。途中にはクマへの注意を促す看板のある道。広がる森は秋一色で、アケビの実も。そのなかを息を整えながら登っていく。この先に本当に滝がある? 標識も少ないので不安になる。華厳ノ滝に比べれば忘れられたような滝。無理もないか。
Scene03
裏見ノ滝に着いた。芭蕉はここで、「暫時は滝に籠るや夏の初」を詠んだ。当時は滝の裏側を歩くことができ、そこから夏籠(げこもり)という修行を連想したのだが、滝裏の道は1902年に崩落。観光客をさらに遠ざけてしまった。穴場ということかもしれないが、訪ねたところで小ぶりの滝があるだけです。
Scene04
バスで日光駅に出て、そこから東武鉄道で新高徳駅まで。駅から少し歩いた「とびこみや」という店で、田舎うどんに野菜の天ぷらをつけたセット。880円。別の客が店名の由来を聞いていた。「よく聞かれます」とスタッフ。県道77号沿いなので、気になる人が多い? うどんをみそ汁につけて食べる優しい素朴な味。うどんは地粉の手打ちでした。
Scene05
新高徳駅で矢板駅行きのバスを待つ。暇。なにしろこの路線は1日5便しかない。地元の日光市、塩谷町、矢板市が委託したしおや交通が運行している。観光客が乗るというより、住民サービスが主な目的の路線だ。芭蕉が歩いた道を路線バスで走ろうとすると、コミュニティーバス系の世界に入り込む。
Scene06
やってきたのは、「幸せの黄色いバス」だった。「?」。フロントには、「幸せは歩いてこない だからバスでいくんだよ」。そこでまた悩む。バスは僕らだけを乗せて発車した。芭蕉も歩いた日光北街道を矢板駅に向かって進む。当時はオオカミも出る危険な道だったという。途中、幸せを求めてバスに乗ってきたのは老人ひとり。バス代は980円。
Scene07
芭蕉が歩いた道を1日1時間は歩こう。今回の旅のミッションを決めた。そこで矢板駅から「かさね橋」を渡った大田原市の薄葉あたりまでの約4キロを歩くことにした。しかし途中は国道4号の歩道。大型トラックが脇を通りすぎる。その音と風圧にげんなり。奥の細道の「いま」を歩くのは、かなりつらい。
Scene08
途中、道を間違えてしまった。そのおかげで稲穂が垂れる田園地帯に。やっと息をついた。芭蕉がこのあたりの道を歩いたのは陽暦5月21日。野辺の草が緑を濃くしていく時期だった。矢板駅の手前の玉生を出発し、1日で大田原市の黒羽に着いている。その距離をグーグルマップで測ると約29キロ。やはり芭蕉にはかなわない。
Scene09
箒(ほうき)川にかかる「かさね橋」に出た。この橋をどうしても渡ってみたかった。奥の細道の「かさねとは八重撫子の名なるべし」という句を目にしたとき、その名前に感じるものがあった。この句はきっとこのあたりでつくられた? 当時、橋はあったのだろうか。水量の少ない箒川を見おろす。
Scene10
「かさね橋」を越えて大田原市に入った。大田原市役所まで循環バスがあるはずだった。たまに出会う人に聞いても、なかなかバス停の場所がわからない。しだいに暗くなっていく。やっとバス停を探しあてたが、この時刻表、見てください。しかし最終バスにはなんとか間に合う。ところが……。
Scene11
バスは定刻にやってきた。乗り込もうとすると、「ぐるぐるまわるので時間、かかりますけど」と運転手さん。しかしもう歩く気力はない。しかし運転手さんのいう通り、このバスは、JR野崎駅周辺を3回もまわって市役所に向かうスケジュールになっていた。市役所まで約8キロの距離だが1時間もバスに揺られていた。運賃は200円でしたが。
Scene12
終点の大田原市役所に着いたときは夕方6時をまわっていた。市役所前がバスターミナルになっていた。芭蕉はこの先の黒羽に2週間近く滞在している。どうしようか……。黒羽まで行くと、那須塩原は翌日になってしまいそうだった。今日は朝の裏見ノ滝往復を加えると2時間近く歩いている。その疲れのなかで逡巡(しゅんじゅん)する。
Scene13
那須塩原駅まで向かうバスに乗ってしまいました。筋力の衰えを憂えつつ。翌日の日程を考え、駅近くのビジネスホテルに泊まった。チェックイン時に手のアルコール消毒と検温。僕の体温は35度台。もともと体温は低いほうだが。首をかしげるスタッフに、「今日はたくさん歩いたからかも」と意味のない弁解。
Scene14
ホテルで、前日にもらった地域クーポンが利用できる近くの店を聞いた。「駅前の『はなの舞』だけです」。東京にもあるチェーン店に那須塩原で? しかしふたりで2000円のクーポンは大きい。しかし『はなの舞』はコロナ禍で9時ラストオーダー。近くのコンビニにも聞いたが扱っていなかった。結局、地域クーポンは使えず、有効期限切れ。
Scene15
宿に戻り、ふと足を見ると、左の小指に血豆。右の小指も腫れていた。2時間ほど歩いただけで……。荷物の重さも足の指に負担をかけていたのか。翌日も歩くつもりだった。はたしてどうなるのか。芭蕉の歩く速さには遠く及ばず、足の指も……。翌朝、目を覚ますと筋肉痛だった。まだ先は長い。
※取材期間:10月15日
※価格等はすべて取材時のものです。
※「奥の細道」に登場する俳句の表記は、山本健吉著『奥の細道』(講談社)を参考にしています。
■「沖縄の離島路線バス旅」バックナンバーはこちら
■「台湾の超秘湯旅」バックナンバーはこちら
■「玄奘三蔵の旅」バックナンバーはこちら
■ 再び「12万円で世界を歩く」バックナンバーはこちら
BOOK
PROFILE
-
下川裕治
1954年生まれ。「12万円で世界を歩く」(朝日新聞社)でデビュー。おもにアジア、沖縄をフィールドに著書多数。近著に「週末ちょっとディープなベトナム旅」(朝日文庫)、「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(中経の文庫)、「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ」(朝日文庫)など。最新刊は、「台湾の秘湯迷走旅」(双葉文庫)。
-
阿部稔哉
1965年岩手県生まれ。「週刊朝日」嘱託カメラマンを経てフリーランス。旅、人物、料理、など雑誌、新聞、広告等で幅広く活動中。最近は自らの頭皮で育毛剤を臨床試験中。