城旅へようこそ

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、兵庫県丹波市の黒井城です。明智光秀を苦しめた「丹波の赤鬼」こと荻野直正の拠点でしたが……。
(トップ写真は黒井城三の丸櫓<やぐら>台の石垣)

【動画】黒井城を訪ねて

「丹波の赤鬼」荻野直正の居城

1575(天正3)年、明智光秀は主君・織田信長に丹波攻略を命じられた。立ちはだかった強敵が、「丹波の赤鬼」と恐れられた有力国人、荻野(赤井)直正だ。1570(元亀元)年頃は信長と足利義昭に従っていた直正だったが、隣国・但馬の山名氏との関係が悪化すると山名氏の竹田城(兵庫県朝来市)へ侵攻。山名祐豊(すけとよ)が信長に援助を求めたことを機に、信長と敵対した。

直正が居城としていたのが、黒井城(兵庫県丹波市)だ。築城時期は定かではないが、戦国時代に赤井氏と荻野氏が台頭すると居城とし、1554(天文23)年に直正が荻野秋清を倒して城主となったとされる。

黒井城は、光秀が一度は大敗を喫し、丹波攻めの撤退を余儀なくされた戦いで知られる。光秀が丹波へ攻め入ると、直正は黒井城に籠城(ろうじょう)。山名氏の書状からは丹波攻めの順調ぶりがうかがえ、光秀自身も黒井城の攻略は目前と認識していたようだ。ところが1576(天正4)年正月、荻野氏と並ぶ丹波二大勢力である波多野氏が信長方から離反、直正に味方したことで事態は一変し、光秀は挟撃され黒井城から撤退したのだった。

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

二の丸から南東方向を望む。対面の二つの小山には光秀が陣を置いていた

1577(天正5)年、光秀は丹波侵攻を再開。翌年に直正が病死し、1579(天正7)年6月に波多野氏の八上城が落城すると、8月に黒井城も開城した。

黒井城はそのまま継続して使われたようで、光秀の重臣だった斎藤利三が入城している。山麓(さんろく)の興禅寺は黒井城の下館(居館)跡で、利三はここに陣屋を構えていたとされる。利三の娘であるお福(後の春日局)の出生地とされるのはそのためだ。3歳まで、この地で過ごしたという。本能寺の変の後は豊臣秀吉の家臣である堀尾吉晴が一時的に黒井城へ入ったようだが、その後は廃城となった。

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

黒井城の下館跡にある興禅寺

城域は半径1km以上 広大な山城

黒井城は、とにかく広大な山城だ。標高356.8メートルの城山を中心に、半径1.2km圏内に城域が広がる。見学スポットになっている城山山頂の曲輪(くるわ)群だけでなく、西の丸を経て約1キロ先の北西尾根には千丈寺砦(とりで)、北東尾根には龍ケ鼻砦や百間馬場、南東尾根には東出丸を経て的場砦や東山砦、東出丸の東側には多田砦など、多方向に伸びる尾根上に曲輪群が展開するのだ。

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

中央の城山山頂が黒井城中心部。向かって右側の尾根先が東山砦、左側の山が千丈寺砦

城山の斜面にも、南西側に石踏の段、南側に太鼓の段が設けられるなど、尾根や斜面の先に膨大な数の曲輪を設けて一大要塞(ようさい)化している。南西に下る尾根は、三段曲輪を経て居館跡と伝わる興禅寺に通じている。

登城道を登ると到達する、城山山頂の曲輪群が黒井城の中心部だ。北西端の最高所を本丸として、南東方向に堀切を隔てて二の丸、三の丸、東曲輪が階段状に並ぶ。本丸の西側には西曲輪がある。さらに、これらを取り巻くように南側と北側に帯曲輪がめぐっている。

石垣や虎口、光秀時代の改変か

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

黒井城の本丸。手前のくぼみが虎口(こぐち)跡

最大の特徴は、曲輪の周囲を固める見事な石垣だろう。山上に累々と残る、自然石をそのまま積み上げた荒々しい野面(のづら)積みの石垣が圧巻だ。石垣の隅角部で直方体の石の長辺と短辺を交互に組み合わせる算木(さんぎ)積みが未発達で、古い時期の構築を思わせる。しかし積み方の特徴から、この石垣は荻野氏時代ではなく光秀時代のものと推察される。

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

三の丸櫓台の石垣

石垣だけでなく、虎口(出入り口)にも光秀時代の改変がうかがえる。たとえば東出丸から三の丸に至る虎口も、単純な平入りではなく複雑に折れる喰(くい)違い虎口だ。高さ2〜3メートルの石垣でがっちりと固め、内側に石列を設けている。織田・豊臣系の城の特徴といえるだろう。

二の丸と本丸は幅1.5メートルほどの堀切で分断され、二の丸から本丸へは堀切の南西側に張り出す小曲輪を経由したようだ。小曲輪を固める石垣はひときわ高く、高さ4〜5メートルもある。石垣の算木積みの様相からも、やはり光秀時代の改修とみてよい。

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

小曲輪の石垣。ひときわ高い

おもしろいのは、前述の小曲輪の石垣をはじめとして、石垣が城下町のある南側に積まれていることだ。二の丸と三の丸の南端には櫓台とみられる石垣が残る。本丸と二の丸の一部からは瓦が出土しており、瓦葺(ぶ)きの建物の存在を示している。虎口付近を強化し、見栄えのよい立派な虎口空間をつくり出すのも、織田・豊臣系の城の特徴だ。

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

本丸南西隅の石垣。ここも櫓台と思われる


明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

本丸南側。数段にわたり石垣が築かれている

石垣が山頂部分にしかないことからも察しがつくように、光秀時代の改修は中心部の曲輪群に限られたようだ。たとえば本丸から150メートルほど北にある西の丸は、荻野氏の朝日城(兵庫県丹波市)と構造が似ているなど、荻野氏時代の縄張(設計)が感じられる。

斜面の横移動を意識した拡張

黒井城は尾根という尾根に曲輪を配置した巨大な山城だ。しかし、決してやみくもに拡張しているのではなく、かなり計画的に連動している点に感服する。たとえば本丸北東側にある北の丸は、斜面を横移動するルートをつなぐベースキャンプのような役割だったようで、通路が東出丸や西の丸へと通じていく。斜面に展開する西の丸、北の丸、東出丸、太鼓の段、石踏の段などを、横移動のルートで緻密(ちみつ)に連動させて中心部を防御していたようだ。

明智光秀を追い詰めた、“赤鬼”の城 黒井城(1)

東出丸。太鼓の段から斜面の通路を経て至る

一方、離れた場所に設けられた千丈寺砦や龍ケ鼻砦などは、主郭と連動せずに独立した、前線で戦うための出城のような存在だったようだ。

(つづく。次回は12月7日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■黒井城
https://www.city.tamba.lg.jp/soshiki/bunka/kuroijyou.html(丹波市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

光秀の時代と江戸時代と 二つの城館が共存する宍人館

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明智光秀が構えた包囲の陣城群 黒井城(2)

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