白河関を越え東北へ 旅行作家・下川裕治がたどる「奥の細道」旅5

下川裕治さんが、松尾芭蕉の「奥の細道」の行程をたどる旅。前回は栃木県で殺生石や遊行柳を訪れた下川さん。今回はいよいよ白河関を越えて東北へ。新幹線を横目に、ゆっくり北へと進みます。
(写真:阿部稔哉)
奥の細道を歩く・白河関から仙台へ
「奥の細道」をたどる旅はいよいよ東北地方に入る。「奥の細道」で芭蕉も、「白川の関にかゝりて旅心定りぬ」と記している。旅も本格化してきたわけだ。「奥の細道」のハイライトは、やはり松島から象潟(きさかた)に至る東北地方の旅。その入り口に僕らも立ったわけだ。白河関が東北の玄関口であることは、いまでも変わらない。白河関の少し手前が、栃木県と福島県の県境である。「奥の細道」の旅の5回目は、白河関から仙台まで進む。筋肉痛や足先の痛みもようやくやわらいできた。歩きなれてきたということか。
「奥の細道」は、1689年、松尾芭蕉が約150日をかけ、東京(江戸)から東北、北陸などをまわった紀行文。馬や船も利用しているが、基本的には歩き旅である。発刊は芭蕉の死後の1702年。
短編動画
芭蕉は白河関から北に進んでいく。仙台の手前、現在の名取市の笠島にあった中将藤原朝臣実方(ちゅうじょうふじわらあそんさねかた)の墓を探す。しかしみつからず、前日の雨で道も歩きにくい。「笠島はいづこ五月(さつき)のぬかり道」を詠んだ。東北に左遷された中将藤原朝臣実方と芭蕉の身を重ね合わせているという解釈が一般的。
今回の旅のデータ
白河関から仙台まで芭蕉は奥州街道を進んだ。絡むようにつくられているのがJR東北線と東北新幹線。新白河から仙台まで新幹線に乗ればあっという間だが、それではあまりにも……。JR東北線の各駅停車に乗って北上した。芭蕉も寄った飯坂温泉へは、福島駅から私鉄の福島交通飯坂線が結んでいる。仙台に近づくにつれ、列車の本数も増え、快速列車も走り、効率的に進むことができる。
白河関から仙台まで「旅のフォト物語」
Scene01
白河関跡に着いた。白河関は新旧ふたつの関がある。芭蕉は新しい関を通ったが、古い関も訪ねている。僕らも古い関といわれるところもとも思ったが、かなり不便。新しいこの白河関だけにした。しかしこのたたずまいだけでも十分に古い。訪ねる人も少なく、どこか忘れられた感、漂ってきます。
Scene02
白河関は小山にあり、襲われたときに備えて土塁や空堀の跡も残っている。周囲はうっそうとした森。そこにあるのが「従二位の杉」。鎌倉時代初期の歌人、藤原家隆の手植えと解説されていたがピンとこない。芭蕉の時代を頭に入れるだけで大変なのに、鎌倉時代初期といわれても……。浅学の旅人は、巨木に、「ほーッ」と見あげるだけ。
Scene03
栃木県から福島県へ。芭蕉は白河関を越えて意が決まったと書いたが、いまは放射線量の表示で福島県に入ったことを知らされる。これから先、被災し再開発された街、廃線になってしまった線路跡や防潮堤を眺めながらの旅になる。風景を描くのも句の世界。東日本大震災後の「奥の細道」。新しい句が浮かぶ?
Scene04
遊行柳から白河関まで一部タクシーを使った(前号)。その理由のひとつが、白河駅と白河関を結ぶ路線バスのスケジュール。平日、白河関を訪ねる人は少ないとはいえ、昼間の運行は時刻表を見てください。この時期、午後5時になるとあたりは暗い。路線バスの運行を考えると、「奥の細道」の旅は、日が長い夏がいい。芭蕉の旅も、だから夏?
Scene05
白河関から路線バスで白河駅に出た。駅舎に入り、ふと見あげると、ステンドグラス。乗降客も少なそうな駅なのに、つくりもどこかレトロ。調べると、かつては職員が約1000人もいた主要駅だったようだ。新幹線が開通し、近くに新白河駅ができ、いまはひっそりとした趣。白河駅も東北の玄関口の役割を終えていた。
Scene06
福島に向かおうと白河駅のホームに立つと、目の前に白河小峰城。天守にあたる三重櫓(やぐら)は1994年に復元されたものだが、ホームからこれほどみごとに見える城はそう多くないはず。駅のホームをつくるときに計算されていたような。在来線に乗ってなんだか得をしたような気分。しばらく見とれていました。
Scene07
福島に列車で着いた。毎日、その日、泊まる街に着くのは夜9時近くになってしまう。白河から福島の間で旧奥州街道があったら歩かなくては……という思いはあった。しかし芭蕉はこの区間、地元の名士が手配してくれた馬にかなり乗っている。芭蕉が馬なら、僕らが列車でいいか……という勝手な拡大解釈。
Scene08
福島駅前のビジネスホテルに1泊し、翌朝、福島駅から福島交通飯坂線に乗って飯坂温泉へ。温泉専用路線の趣で車内に「飯坂温泉」ののれんも。と思うのが僕らだけで、乗客の大半は沿線に住む人たちという通勤通学列車。終点の飯坂温泉駅で降りたのは3人だった。走る距離は9.2キロという短い路線。運賃は370円。
Scene09
飯坂温泉は共同浴場で知られている。現在9カ所の共同浴場がある。地元の人も利用する浴場だ。温泉はビル型の宿が多く、共同浴場の建物のほうが風情がある。さっそく僕らも1624年にみつかったという古い共同浴場のひとつ、切湯へ。ぜいたくな朝風呂です。入浴料は200円ですが。
Scene10
共同浴場の切湯はかなり熱かった。脇から注がれる水の近くでつかる。芭蕉もこの湯につかったが、例によって温泉の記述はなく、代わりに泊まった宿を酷評。雨漏りの上に、ノミや蚊に食われて眠れず、気も失うばかり……と書いている。これだけ書かれたら、地元の人も困惑しただろう。芭蕉はそういう気遣いがまったくない俳聖です。
Scene11
飯坂温泉から福島に戻り、JR東北線で名取駅へ。ここから中将藤原朝臣実方の墓まで片道約4キロ歩きが待っていた。東日本大震災の津波でこの一帯も被災。再開発された駅周辺は飲食店がまだ少ない。やっとみつけたラーメン店も混みあっていた。小1時間ほどかかって出てきた「ひき肉からしつけ麺」(写真、810円)で腹ごしらえ。
Scene12
名取駅に荷物を預け、西に向けて歩きはじめる。「奥の細道」の旅に出るまで、中将藤原朝臣実方の名も知らなかった。ところが西に向かう道は実方通りと名づけられていた。このあたりでは有名人? 西行の訪ねたその墓。芭蕉はみつけることができなかった。しかし僕らにはグーグルマップという強い味方がある。でも、遠い。
Scene13
1時間ほどかかって中将藤原朝臣実方の墓に着いた。農村地帯の竹林のなかにあった。山本健吉の「奥の細道」によると、中将藤原朝臣実方は995年、書の名人、藤原行成との間で事件を起こし陸奥守となって奥州に左遷。ここで死んでいる。左遷の裏には清少納言との三角関係があったとか。芭蕉は彼の悲劇に思い入れがあったようだ。
Scene14
名取駅に戻らなくてはならない。農道のような道をとぼとぼ歩いた。東北新幹線がこの世のものとは思えない速さで通過する。新幹線の高架の下をくぐる約4キロの道。ザックを駅に預けたので足の痛みはないが、しだいに飽きてくる。いくら歩いても名取駅は見えてこない。旅はときに忍耐を強要する。
Scene15
名取駅から仙台に出た。その日、仙台から東京に戻る予定だったが、時間があったので、仙石東北ラインの列車に乗って多賀城市方面まで行ってみることにした。そのあたりに、本のタイトルではなく、道の名前として「奥の細道」があるようだった。歩いてみたい。芭蕉も、「おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)有」と書いている。その話は次回に。
※取材期間:10月16日~10月17日
※価格等はすべて取材時のものです。
※「奥の細道」に登場する俳句の表記は、山本健吉著『奥の細道』(講談社)を参考にしています。
【次号予告】次回は仙台から塩釜までの旅を。
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BOOK
PROFILE
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下川裕治
1954年生まれ。「12万円で世界を歩く」(朝日新聞社)でデビュー。おもにアジア、沖縄をフィールドに著書多数。近著に「週末ちょっとディープなベトナム旅」(朝日文庫)、「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(中経の文庫)、「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ」(朝日文庫)など。最新刊は、「台湾の秘湯迷走旅」(双葉文庫)。
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阿部稔哉
1965年岩手県生まれ。「週刊朝日」嘱託カメラマンを経てフリーランス。旅、人物、料理、など雑誌、新聞、広告等で幅広く活動中。最近は自らの頭皮で育毛剤を臨床試験中。