花がキロ単位で売られるインド ごく当たり前な日常の風景
文: 三井昌志
花はインドの人々の暮らしに欠かせないものだ。お祭りや結婚式などの祝い事は必ず大量の花が飾られるし、プージャと呼ばれる宗教儀式でも、信者たちが色とりどりの花を神に捧げる姿を見ることができる。2020年5月には、新型コロナウイルスと闘う医療従事者に感謝の気持ちを伝えるために、インド軍がヘリコプターで大量の花びらを上空から降らせるという出来事があった。インド人にとって、花とはこの世界に彩りと祝福をもたらしてくれる象徴なのだ。

インド北部パンジャブ州でマリーゴールドの収穫を行う女性たち(撮影:三井昌志)
花の栽培はインド各地で行われている。北部パンジャブ州では、マリーゴールドの収穫を行う女たちの姿を目にした。マリーゴールドはヒンドゥー教徒にとって特に縁起が良いものとされていて、インドでもっともポピュラーな花になっている。また、マリーゴールドには農作物に害をもたらす病害虫を寄せ付けない効果があるらしく、そのために野菜畑の隣に植えられることも多いという。
女たちが一つひとつ丁寧に手摘みした花は、しおれないうちに地元の市場へと運ばれ、すぐに消費者の手に渡る。販売はキロ単位という豪快さだ。ちなみにマリーゴールド1キロは100ルピー(約150円)前後という安さだった。

インド最大の聖地バラナシで行われる儀式(プージャ)の最後を飾るのも大量の花びらだ(撮影:三井昌志)
南部アンドラプラデシュ州にあるグントゥールという街では、花飾りを作る工房にお邪魔することができた。マリーゴールドやジャスミン、バラなどを糸でつないで、一本の太い花飾りにする。これは結婚式などで使われるもので、もっとも高価なバラの花飾りだと1本300ルピー(約450円)もするという。

花飾りを作る職人の手さばきは見事だった(撮影:三井昌志)
職人の手さばきは見事だった。右手で花をつかみ、左手で糸をくるくると回して、それを結びつけていく。からだが一連の動きを覚えているのだろう。手元を見る必要もなく、次から次へとリズミカルに花と花がつながっていく。見ているだけで楽しくなるような熟練の技だった。
花飾りの工房を出たところで、突然一人の男が話しかけてきた。
「あんた、こんなところで何しているんだね?」
男はなまりの強い英語で僕に尋ねた。
「写真を撮っていたんですよ、ここで」と僕は答えた。
「何を撮っていたんだね?」
「花飾りを作る姿がとても美しかったから、それを撮っていたんです」
しかし、僕の答えは彼が期待していたものではなかったようだ。彼は大きく首を振って言った。
「美しいものなんて、ここにはないよ。ただの汚い町で、貧しい人々が働いているだけだ。もし君が美しいシーンが撮りたいのなら、町外れのフォートに行きなさい。古い城だ。あそこは素晴らしい。さぁ行くんだ!」
インドにはときどきこういう人がいる。相手の心情を無視して、一方的に自分の主張をまくし立ててくる困った人が。外国人に対する親切心から出た言葉なのかもしれないが、僕にとってはおせっかい以外のなにものでもなかった。
しかし、彼と別れて街を歩きながら、僕は自分がなんだかうれしい気持ちになっていることに気付いたのだった。地元の人に「この町には美しいものは何もない」と断言されたことで、自分がインドを旅している本当の理由がわかったような気がしたのだ。
美しいものが、その間近にいる人たちに認知されないというのは、よくあることである。たとえば浮世絵は江戸時代の日本人にとってはありふれた庶民の娯楽で、高尚な芸術とはほど遠いものだと考えられていたが、それが陶器を梱包(こんぽう)する際の包み紙として西欧に渡ったことで、外部の人間の目に触れ、改めてその斬新さと芸術性が評価されたのである。
マリーゴールドを収穫する女性たちの姿も、花飾りを作る職人の見事な手さばきも、そこで暮らす人々にとっては何ら新鮮なものではない。それは凡庸な日常を構成するパーツのひとつでしかないのだ。
内部の人間には気づけない美しさがある。インサイダーだからこそ見落としてしまうものがある。
だからこそ、僕はアウトサイダーとしてインドを旅して、写真を撮っているのだと思う。
地元の人が見向きもしないようなありふれた日常の中に、何か特別な光が宿るときがある。その瞬間を捉えたくて、僕はインドを走り回っているのだ。
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写真家・三井昌志さんの新刊『Colorful Life 幸せな色を探して』(日経ナショナル ジオグラフィック)が、12月14日刊行予定です。
バーチャル写真展「The Essence of Work」が開催中。