城旅へようこそ

明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は兵庫県丹波篠山市の金山城です。明智光秀が丹波攻略に際し、敵の波多野氏と荻野氏の連携を遮断する狙いで築いた陣城でした。訪ねてみてわかったのは……。
(トップ写真は金山城・主郭南面の石垣)

【動画】金山城を歩く

荻野氏と波多野氏の連絡を断つ城

明智光秀の丹波攻略での二大城攻めとなった、荻野氏の黒井城(兵庫県丹波市)攻めと波多野氏の八上城(兵庫県丹波篠山市)攻め。両城の立地的な共通点は、平野を見下ろす山城であることだ。光秀がとった城攻めの方法もほぼ同じで、周囲に無数の陣城を築いて包囲している。

八上城と黒井城のちょうど中間あたりには、壁のように山々が立ちはだかっている。現在の丹波市と丹波篠山市の境にあたるこの山々には、三尾山城、夏栗山城、譲葉山城などが築かれていた。その一つ、標高540メートルの金山に築かれた光秀の陣城が、金山(きんざん)城だ。


明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

金山城から遠望する黒井城。左端が譲葉山城

荻野氏と波多野氏は丹波の二大勢力であり、光秀にとっては両氏の攻略こそ実質的な丹波の攻略だった。光秀は1577(天正5)年から丹波攻めを再開すると、1579(天正7)年6月に八上城を攻略。黒井城も共倒れのように同年8月に開城した。

黒井城攻めと八上城攻めは、同時進行で行われていたと言ってよい。光秀にとっての懸念は、荻野氏と波多野氏の連携だった。金山城は、両者の連絡を断つべく、両城に通じる金山に1578(天正6)年9月頃から築いたと考えられている。

明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

黒井城からも金山城が見える

金山城の西側には、両城を結ぶ古い峠道が通る。かつては金山山腹に鐘ケ坂峠があり、鐘ケ坂峠を越えて東山麓(さんろく)の追入(おいれ)集落へと通じていた。鐘ケ坂峠は、山頂付近にある「鬼の架け橋」と呼ばれる奇岩が見える、歌川広重の浮世絵にも描かれた名所だった。黒井城と八上城に通じるこの峠道を遮断するのが、金山城が築かれた主目的だろう。

明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

鬼の架け橋


明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

金山城から追入集落を見下ろす。遠くに八上城

目的は接近戦ではなく敵城監視

金山城へは、追入集落にある追入神社の脇から登っていく。この登城道が、前述の古い峠道にあたるという。20分ほど登り、稜線に出た後は尾根を山頂に向けて北上。10分ほど登ると園林寺(おんりんじ)跡に着き、曲輪(くるわ)らしき平坦(へいたん)地と虎口を経てさらに10分ほど登ると、主郭のある山頂に着く。

明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

園林寺跡と3郭の間にある小曲輪への虎口

山頂一帯は、山頂に主郭を置き、東尾根上に東西に細長い2郭、主郭南側斜面に南北に細長い3郭が設けられている。山全体の広さと比較すると主郭一帯は小規模で、堀や土塁が多用されているわけではない。2郭は岩盤が露出しており曲輪は不整形、3郭は東側に土塁が残るものの、いかにも戦国時代の山城の様相だ。接近戦を想定した城ではなさそうだ。

ただし、主郭からの眺望は素晴らしく、黒井城および八上城方面への見通しがきく。敵対する城を監視するためにある城であること、その目的を十二分に果たす絶好の場所にあることがわかる。

明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

主郭北側の虎口

印象的なのは、一時的な陣城でありつつ、恒常的な城への改変が感じられることだ。主郭の周囲には石垣が残り、織田政権の城の特徴が感じられる。とくに主郭の西側と南側は石垣はよく残り、かつての姿が目に浮かぶ。主郭への虎口は北側にあり、西側から一度折れて主郭に上がる。虎口付近の主郭北面の石垣は一段と威容を誇り、「見せる意識」を感じずにはいられない。主郭の北側にも帯曲輪があり、崩れてはいるものの主郭北側が石垣で固められていたことがわかる。

明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

主郭西側の石垣と岩盤

設計面で注目しておきたいのは、主郭南下段の竪土塁だ。主郭南側には帯曲輪があり、その西端に竪土塁が設けられている。この竪土塁と3郭の竪土塁が対をなして、城域の南西斜面をがっちりと覆うように防御していたようだ。

明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

主郭北側の虎口

度肝を抜かれる竪土塁と竪堀

山頂付近だけでも見ごたえはあるが、この城でもっとも度肝を抜かれたのは、3郭の南西側約100メートルにある4郭付近に残る、竪土塁と竪堀だ。3郭の一段下には小曲輪があり、その南端から竪土塁が設けられ、谷を隔てて4郭までの斜面にも約50メートルもの竪土塁と竪堀が設けられている。

聞けば、この谷の底部に古い峠道が走っていたという。つまり、谷部を通る峠道を挟み込むように3郭と4郭を置き、それらをつなぐよう竪土塁と竪堀で遮断線を構築していたようなのだ。とくに、4郭側の竪土塁と竪堀はかなり良好に残っており圧巻。途中で折れを伴う技巧性にも驚いた。

明智光秀が造った黒井城と八上城の遮断線 金山城

4郭付近の竪土塁と竪堀

前述のように、この城は広大な駐屯スペースを有する城でもなく、最前線での戦いを想定した技巧的な城でもない。最優先事項は、黒井城側と八上城側との連絡を遮断すること。峠道を抑えることへの強い意識が感じられるとともに、こうした遮断線の敷き方もあるのだと感心した。

(この項おわり。次回は1月25日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■金山城
https://www.city.sasayama.hyogo.jp/siryositu/burari07.html(丹波篠山市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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