城旅へようこそ

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は周山(しゅうざん)城(京都市)です。明智光秀が築いた城としては最大規模のものです。石づくりの「東の城」、土づくりの「西の城」で構成される、巨大な山城です。
(トップ写真は周山城の主郭西側曲輪〈くるわ〉群、北面の石垣)

光秀の築城技術を知るうえで群を抜く存在

周山城は、坂本城(大津市)、亀山城(京都府亀岡市)、福知山城(京都府福知山市)と並び、明智光秀が築城したとされる城だ。文献にほとんど記載がない謎めいた城だが、残存状態が格段によく、光秀の築城技術が見られるという点では群を抜く。しかも、機能した時期が限定され、当時の築城技術を考察する上でも学術的価値が高い。

1579(天正7)年に八上城と黒井城を攻略した光秀は、丹波における残りの反対勢力を一掃し平定の総仕上げに着手。その一つが、京北地域の宇津氏だった。周山城は、光秀が攻略した宇津城(京都市)を改修する一方で、東丹波の新たな支配拠点として築いたと考えられている。

光秀と親しかった茶人の津田宗及(つだ・そうぎゅう)が「津田宗及茶湯日記」において、光秀に招かれ1581(天正9)年8月14日に月見をしたと記しており、周山城はこの頃には完成していたらしい。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭東側の曲輪のさらに東側尾根上の曲輪群、南側の虎口脇の石垣

光秀は亀山城を居城に定め、丹波の支配体制を整えた。周山城はその一角と考えられ、福知山城を築いて明智秀満を置いたように、周山城を築いて明智光忠に任せた。いずれの城も、主君・織田信長の次なる敵である毛利氏を意識しての選地が感じられる。

その立地を見れば、周山城の重要性がよくわかる。周山城は、弓削(ゆげ)川が大堰(おおい)川と合流して桂川となる西側、標高480.7メートルの城山一帯にある。桂川は嵯峨に通じる、水運による材木供給ルートだった。また、京と若狭を南北に結ぶ周山街道が南北に走り、陸上交通の要衝でもあった。

周山城は、光秀が1582(天正10)年の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた後も存続し、丹波を領地とした秀吉の家臣が1584(天正12)年頃まで使用したようだ。1584年以降は使われた記録がなく、文献上は1581〜1584年という限られた時期だけ機能していたと解釈される。機能した時期がかなり限定されるため、当時の築城技術や城のあり方を考える上で貴重。信長家臣の城として、秀吉が大坂城(大阪市)や聚楽第(じゅらくだい、京都市)などを築くまでの間に築かれた織田・豊臣系の城の例として重要といえよう。

「東の城」は石づくり ほぼ総石垣

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭の西側にある曲輪の石垣

周山城は、隠れた名城だ。アクセスは悪く上級者向けながら、見ごたえがあり何度訪れても感激する。特徴は、大きく二つ。一つは、石垣を多用した大規模な山城であること。もう一つは、石垣づくりの東の城とは別に土づくりの西の城がセットで存在することだ。

東の城は、標高480.7メートルの城山を中心とし、天守台を含む石垣の主郭を中心に、8方向に伸びる支尾根に曲輪が放射状に展開している。範囲は東西約800×南北約700メートルに及ぶ。ほぼ総石垣で、その壮大な石垣が魅力だ。姫路城(兵庫県姫路市)や大坂城など江戸時代初期に築かれた城の石垣とは異なり、未発達の算木積みや荒々しい天正期の石垣は圧巻で、ルイス・フロイスに築城名人とたたえられた光秀の築城技術の高さも垣間見える。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭西側曲輪群の石垣

主郭の石塁は天守台か

主郭は広くはないが石垣で囲まれ、近世の城のような方形の曲輪への意識が感じられる五角形になっている。「E」字のような石塁は天守台とみられ、瓦が出土していることから瓦葺(ぶ)きの建物の存在が推察される。

主郭からは、東・西・南側に細長い曲輪が斜面上に連なる。東側の曲輪は山麓(さんろく)の集落に通じていて、南側の虎口の先には東側尾根上の曲輪群が展開し、その東側と北側にも曲輪群が広がっている。北側にも虎口があり、北側の尾根上に延々と連なる曲輪群へと通じている。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭東側の曲輪、南側の虎口

主郭の虎口は二つあり、東側の曲輪に通じる虎口が大手とみられる。枡形(ますがた)のような広い空間を伴い、崩れてはいるものの四方は石垣でがっちりと囲まれていたことがわかる。瓦が散乱しており、おそらくは豪壮な瓦葺きの城門が建っていたのだろう。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭東側の虎口

敵に備えた巧妙な設計

主郭のもう一つの虎口は主郭北西側にあり、西側の曲輪群に通じている。1段下の虎口は喰違(くいちが)い虎口になっていて、織田・豊臣系の城の特徴が感じ取れるのが特徴だ。曲輪を歩きながらよく見ると、城道は敵のスムーズな侵攻を阻むべく細やかに屈曲し、側面にも石垣が積まれている。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭北西側の虎口

西端部の二つの曲輪が、効率よく横矢が掛かるように少しずらされて配置されているのも織田・豊臣系の城の傾向といえるだろう。曲輪を囲む石垣の塁線もおのずとずれ、折り重なるようなラインも美しい。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭西側の曲輪群、北面の石垣


明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭西側の曲輪群、南側の通路と井戸

曲輪群を長大な「竪石塁」で一体化

周山城の石垣の最大の特徴は、主郭から放射状に伸びる曲輪群を、斜面に沿って築かれた長大な「竪石塁」でつなぐようにして一体化していることだ。主郭の南側の曲輪群も、両側には長大な竪石塁が設けられている。明智時代か羽柴時代か構築時期は定かではないが、斜面への強い警戒が感じられる。

明智光秀が築いた総石垣の巨大な名城 周山城

主郭と東側の曲輪をつなぐ石塁

土づくりの「西の城」 東の城と併存か

西の城は、2本の堀切を挟んで約350メートル離れたところに築かれている。石垣で固められた東の城に対して、西の城は純粋な土の城だ。東の城以前に存在した古い時期の城とも考えられるが、織田・豊臣系の城の特徴である外枡形虎口があり、設計から推察すると同時期の築造と思われ、併存していた可能性が高い。宇津城攻めの際に築かれた陣城なのだろうか。そもそも、東の城がなぜこれほどの山中に築かれたのかも含め、周山城には謎が多い。解明が楽しみな城だ。

(この項おわり。次回は2月1日に掲載予定です)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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