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世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(1) ひそやかに維持された信仰 

  • 文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
  • 2018年7月2日

天草市五和町にある「鬼の城キリシタン墓碑公園」。五和町内に点在するキリシタン墓碑を集めて整備した

6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されることが決まった。

潜伏キリシタンとは、キリスト教が禁じられていた17〜19世紀の日本において、忍びやかに信仰を維持し続けた人々のことだ。宣教師との接触を断たれながら、既存の社会や宗教と共生しつつ地域ごとに独自の信仰形態を育み、250年にも及ぶ伝統をつくり上げた。

潜伏キリシタンの伝統の証しとなる12の資産群には、実は城がひとつ含まれる。ひそかな信仰がはじまるきっかけの舞台となった、長崎県南島原市の原城跡(構成資産①)だ。日本列島は大航海時代のアジアにおいてキリスト教宣教の東端にあたり、なかでも集中的に宣教が行われたのが長崎と天草地方だった。関連する城を通して、世界遺産の歴史と意義を読み解いていこう。

長崎県南島原市の口之津港緑地公園に建つ、イエズス会巡察師のアレッサンドロ・バリニャーノの像。1579(天正7)年に口之津港に上陸、有馬のセミナリヨを造り、天正遣欧少年使節を派遣した

潜伏キリシタンの歴史は、おおまかに「始まり」「形成」「維持・拡大」「変容・終わり」の4段階に分かれる。

1638(寛永15)年に原城での籠城(ろうじょう)戦で終息した島原・天草一揆が、潜伏キリシタンの「始まり」だ。キリシタンを中心に約3万7000人の一揆軍が結集した原城は、12万余人の江戸幕府軍に攻撃され落城。一揆軍のほとんどが殺されるという壮絶な結末を迎えた。幕藩体制を揺るがす大事件となり、幕府は海禁体制を確立。鎖国へと突入し、ポルトガル船の来航は禁止され、最後の宣教師も殉教した。ここから、幕府の探索をかいくぐり信仰を続ける、潜伏キリシタンの歴史が始まるのである。

島原・天草一揆の舞台となった原城跡

原城の本丸に建つ、天草四郎の像。一揆軍の首領とされた16歳の少年で、救世主としてカリスマ的な存在だった。父がキリシタン大名・小西行長の遺臣といわれる。本名は益田時貞

長崎県島原市にある島原城。1616(元和2)年に領主となった松倉重政が領民に増税と過酷な労働を強いた島原城築城も、島原・天草一揆の一端といわれる

潜伏キリシタンは各地に存在したが、17世紀後半に「崩れ」と呼ばれる幕府による大規模な摘発が繰り返されるうち、潜伏キリシタンの集落は長崎と天草地方に限られていった。この地域で潜伏キリシタンが途絶えなかったのは、もともと宣教の拠点であり、長期にわたる宣教師の指導によって組織的な信仰の基盤が整えられていたからだ。キリシタンであることを選択した人々は、発覚しないよう秘匿を基本とする信仰形態を取った。これが、潜伏キリシタンの「形成」段階である。

潜伏キリシタンは、信仰を維持するためにそれぞれの集落に共同体を形成し、宣教師に代わる指導者を中心に儀礼や行事を行った。その信仰の仕方は地域によってさまざまで、平戸の聖地と集落(構成資産②③/長崎県平戸市)のように自然崇拝に重ねて山岳やキリシタンが処刑された島を崇敬することもあれば、天草の﨑津集落(構成資産④/熊本県天草市)のように生活や生業に根ざした身近なものを信心具としたケースもあった。外海(そとめ)の出津(しつ)集落(構成資産⑤/長崎市)では聖母マリアなどの聖画像に祈りを捧げ、外海の大野集落(構成資産⑥/長崎県長崎市)では古来の神社に自分たちの信仰を重ねていた。

やがて幕府側も、本人が信仰を表明しても社会秩序を乱さなければ処罰しない黙認の姿勢を取るようになった。「秘匿」と「黙認」の絶妙な均衡によって、歴史は重ねられていった。

﨑津集落。漁村特有の信仰形態を育んでいた。1805(文化2)年の「天草崩れ」では7割の村人が検挙された

18世紀の終わりになると、人口増加に伴う五島列島への移住協定が大村藩と五島藩の間で結ばれ、外海の潜伏キリシタンたちは信仰を続けるために戦略的に離島を移住先として選んだ。これが「維持・拡大」の段階である。黒島の集落(構成資産⑦/長崎県佐世保市)、野崎島の集落跡(構成資産⑧/長崎県小値賀町=おぢかまち)、頭ヶ島(かしらがしま)の集落(構成資産⑨/長崎県新上五島町)、久賀島(ひさかじま)の集落(構成資産⑩/長崎県五島市)がこの時期の構成資産だ。

長崎県五島市にある水ノ浦教会。外海から移住した潜伏キリシタンたちが、キリスト教が解禁された後に建立した。沖合に望める現在は無人島となった姫島も、潜伏キリシタンの移住先だった

幕末になると、「変容・終わり」の段階を迎えた。幕府が下田、函館に次いで長崎を開港し鎖国が終わる。宣教師によって外国人居留地に大浦天主堂(構成資産⑫/長崎市)が建設されると、潜伏キリシタンのひとりが大浦天主堂の神父に自分たちの存在を告白。1865(元治2)年に起きたこの「信徒発見」という出来事を契機に、各地で宣教師との接触が図られるようになった。

信徒発見後も弾圧は続いたが、1873(明治6)年には禁教高札が撤去された。宣教師の指導下に入ることを決めて洗礼を受けた人々によって、やがて祈りの場に変わる教会堂が各所に建てられた。奈留島の江上集落(構成資産⑪/長崎県五島市)もそのひとつで、人里離れた谷間に移住した潜伏キリシタンによって、カトリック復帰後に建てられたのが江上天主堂だ。まさに、伝統の終わりを象徴的に示す存在だった。

長崎県五島市にある堂崎天主堂。キリスト教が解禁された後、五島に初めて建てられた教会堂。1908(明治41)年に年改築された

熊本県天草市の大江天主堂。キリスト教解禁後に天草で最初につくられた教会堂だった。現在の建物は1933(昭和8)年にフランス人宣教師のガルニエ神父により築かれた

世界でもまれな日本独自の信仰の形態は、このようにして形成された。次回は、その舞台のひとつとなった天草を歩こう。

熊本県天草市の本渡城山公園内にある、殉教戦千人塚。島原・天草一揆の戦没者がまつられる。公園内には城山公園キリシタン墓地もある

>> 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(3)島原・天草一揆ゆかりの城

>> 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2)﨑津集落を歩く

(つづく。次回は7月9日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
http://kirishitan.jp/

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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