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世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2)﨑津集落を歩く

  • 文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
  • 2018年7月9日

チャペルの鐘展望公園から見下ろす﨑津集落

〈長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(1)から続く〉

世界遺産登録が6月末に決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する12資産のひとつ、﨑津集落(熊本県天草市)。キリスト教が禁止されていた江戸時代、潜伏キリシタンがひそかに独自の信仰を維持していた場所だ。

﨑津集落は、天草空港から車を40分ほど走らせた、天草諸島下島の南西部にある。フィヨルドのように海が入り組む羊角湾の入り江に位置し、現在は漁船が停泊する静かな港町だ。穏やかな人々の営みとともに、ゆったりとした時間が流れている。

﨑津集落。2012(平成24)年に「天草市﨑津・今富の文化的景観」として国の重要文化的景観に指定されている

構成資産としての﨑津集落の大きな特徴は、日本の伝統宗教とキリスト教を共生させながら信仰を維持していたことだ。潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒として寺に所属し、﨑津諏訪神社の氏子となっていた。絵踏(えふみ)をしてキリシタンではないように振る舞い、「あんめんりゆす(アーメンデウス)」と唱えながら神社に手を合わせ、神社の儀式に自らの信仰をうまく擦り合わせていたという。驚くことに、かつての﨑津教会は﨑津諏訪神社に隣接していた(後に吉田庄屋役宅跡に移転)。集落の中央に神社とカトリック教会が隣り合って存在していたのだ。

キリスト教布教の中心地となった﨑津教会跡(左)と﨑津諏訪神社。﨑津諏訪神社は1647(正保4)年に豊漁と海上の安全を祈る地域の守り神として建てられた

﨑津集落の潜伏キリシタンのあつい信仰心を裏付けるエピソードが、1805(文化2)年の「天草崩れ」だ。幕府による「崩れ」と呼ばれる大規模なキリシタン検挙は天草でも行われ、四つの集落(﨑津・高浜・大江・今富)の全住民1万669人のうち、約半数にあたる5205人が摘発された。しかし﨑津では実に全住民の72パーセントが潜伏キリシタンであったため、村の存続を危惧して嘆願書が出され、「心得違い」として黙認されて重罪を免れた。

﨑津諏訪神社は集落の中心にあった

潜伏キリシタンは信仰の発覚を回避するため、さまざまなものを信心具の代用品としていた。漁村である﨑津集落で崇敬されていたのは、ロザリオやメダイ(メダル)のほか、アワビやタイラギなど身の回りのもの。貝殻の内側に浮き上がる模様を聖母マリアに見立てるなどしていたのだ。漁村の神である恵比寿神や大黒天をデウスとして崇敬していたともいう。

大江集落では、干潮時にしか行かれない海辺の洞窟に「穴観音」と呼ばれる観音像を据えたり、十字架やマリア観音像などを埋めて塚にした山中の「隠し御堂」を造ったりした。海や畑に働きに行くふりをしてこのような場所を訪れ、ひそやかに信仰を継続していたという。

旅館を改修した「﨑津資料館みなと屋」。﨑津集落の歴史や文化が紹介され、﨑津の生活や信仰がよくわかる

育まれた伝統は信徒発見により新たな局面を迎え、天草にも250年ぶりの夜明けが訪れた。キリスト教が解禁された後、天草ではフランス人宣教師のガルニエ神父が1933(昭和8)年に大江天主堂を建立。﨑津集落でも、フランス人宣教師のハルブ神父の依頼によって、1934(昭和9)年に現在の﨑津教会が完成した。

﨑津教会は、禁教期に絵踏が行われた庄屋役宅跡に建立され、教会の祭壇は、かつて絵踏が行われていた場所に設置されたと伝わる。教会をキリスト教復活の象徴としたいという、ハルブ神父の強い思いが込められているのだという。

﨑津教会。「海の天主堂」ともいわれる

さて、天草は潜伏キリシタン誕生のきっかけとなる島原・天草一揆の舞台でもある。1602(慶長7)年頃から寺沢広高が築いた富岡城(熊本県苓北町)でも、激しい戦いが繰り広げられた。

キリスト教の受容は、南蛮貿易の利益が本来の目的だった。戦国時代に天草を統治していた天草五人衆と呼ばれる領主たちはキリスト教を通じて西洋文化を取り入れようとし、相次いで改宗。これを受けて、最盛期には島民の80パーセントがキリシタンになった。

関ケ原合戦後、キリシタン大名の小西行長に代わり肥前唐津藩の寺沢広高が天草を拝領したことが、天草における大きな転機となった。広高が石高を実際の収穫量の倍以上で申告したため、農民たちは過酷な年貢徴収により困窮。さらに江戸幕府が禁教令を発布し規制を強めると、キリシタンは改宗を迫られ迫害も激化した。後を継いだ寺沢堅高も徳川家光の命令に従って弾圧を強化した。

悪政と弾圧、さらに大飢饉や拷問に耐えかねた天草の領民は、同じ状況にあった島原半島の領民とともに蜂起。キリシタン大名の元家臣も加わり、組織化された軍による島原・天草一揆に突入したのである。

船之尾町にある祇園橋。島原・天草一揆では川をはさんで一揆軍と唐津藩が激突した。全国的にも珍しい多脚式の石造桁橋で、国の重要文化財に指定されている

富岡城は、天草灘に飛び出す富岡半島に築かれた城だ。富岡半島は天草下島の北西部から砂州でつながり、その南東の丘陵に築かれた富岡城は、南は袋池が堀の代わりとなり、東は土塁のように城を囲い込む砂嘴(さし)に守られた城だった。攻め込む場合は陸続きに足場の悪い砂州を渡るしかなく、城としては望ましい立地といえよう。本丸からは砂嘴に囲まれた穏やかな巴湾(ともえわん)が見下ろせ、島原半島や東シナ海が一望できる。ふもとから見上げる姿も勇ましい。

富岡城からの眺望。巴湾が見下ろせる

富岡城は最も高い場所に本丸を置き、北東に二の丸と出丸が連なり、二の丸の南東下に三の丸が配されている

一揆軍は富岡城を落城寸前まで追い詰めたが、幕府の援軍が到着するとのしらせにより、富岡城を離れて島原半島へと渡り原城(長崎県南島原市)に籠城(ろうじょう)したという。城のふもとにある富岡吉利支丹供養碑は、一揆の戦死者を弔うべく建立されたものとされる。

一揆の終息後、富岡城は幕府の資金を受けた山崎家治によって大修復された。二の丸西側の石垣は三重構造であることが修復時に判明していて、もっとも奥は寺沢時代の石垣で、表面には一揆との攻防を示す焼けた痕跡が残っていた。この石垣を隠すために二重目の石垣が急造され、その上を山崎氏が新たな石垣で覆ったようだ。

修復された、富岡城二の丸西側の石垣。三重目の山崎時代の石垣は後に城を破却する戸田氏によって破壊された跡もあり、富岡城のさまざまな歴史を物語っている

(つづく。次回は7月23日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
http://kirishitan.jp/

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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