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難攻不落 山陰の覇者・尼子氏の巨大山城 月山富田城(1)

  • 文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
  • 2018年10月15日

山中御殿から見上げる月山富田城の山頂。七曲がりと呼ばれる登城道を登り切ると三の丸に到達する

戦国時代、出雲守護代から戦国大名となった尼子氏。その居城が、月山富田城(がっさんとだじょう、島根県安来市)だ。1542(天文11)年からの大内義隆を退けた第1次月山富田城の戦い、大内氏を滅ぼした毛利元就が1566(永禄9)年に開城させた第2次月山富田城の戦いは、戦国時代を代表する戦いとして知られるところだろう。山陰の覇者として勢力を誇った尼子氏は元就により没落させられ、元就は中国地方最大の戦国大名として名を挙げることになる。

飯梨川対岸にある尼子経久像。山陰・山陽地方一帯に勢力を拡大し、尼子氏の最盛期を築いた

難攻不落の城として知られる月山富田城は、第2次月山富田城の戦いの際も鉄壁の防御を誇った。1565(永禄8)年、元就は尼子義久がこもる城の主要な3つの登城ルートを同時に攻撃。塩谷口は吉川元春、菅谷口は小早川隆景、御子守口は元就自らが大将となって総攻撃をかけた。しかし、尼子軍はこれを撃退したばかりか、さらに荒隈城(あらわいじょう、松江市)に退却する毛利軍を追撃したといわれている。

元就にとって、この城を攻めるのは第1次月山富田城の戦いに次いで2度目だ。第1次月山富田城の戦いは大内氏衰退の一因となった戦いでもあり、元就自身も退却時に危機にさらされた苦い経験がある。堅牢さを知る元就は一気に攻めこまず、周辺勢力の掃討と補給路の確保に専念。劣勢が続くと無理な攻城はせず全軍に撤退を命じた。そして兵糧攻めに切り替え、巧みな調略の末に陥落させた。希代の策略家と名高い元就の調略術がなければ開城することはなかった難攻不落の城といえよう。

月山富田城の太鼓壇(たいこのだん)にある、山中鹿介幸盛祈月像。三笠山にかかる三日月を拝して「我に七難八苦を与え給え」と祈念している

富田城は、標高190メートルほどの月山に築かれている。外堀でもあるふもとの飯梨川に向かって、馬蹄形(ばていけい)に伸びる尾根上に多くの曲輪(くるわ)を配置する構造だ。まず山頂に主要部が築かれ、北西に派生する尾根上に城域が拡張されたと思われる。中腹の山中御殿が居館跡と考えられ、近世には中枢部となって勢力の拡大とともに城域も拡大していったようだ。城は山頂の主郭部、山中御殿から北西尾根に連なる曲輪群、主郭から北東側に展開された曲輪群から構成される。

山中御殿。大手門を上がったところにある3000平方メートルほどの広い区画。平地と石垣の上下2段に分かれていた

山頂へは、中腹の山中御殿から七曲がりと呼ばれる登城道を登っていく。登りきると出迎えてくれるのが、三の丸の立派な石垣だ。さすがは尼子氏の城だと感激してしまうが、残念ながらこの石垣は尼子氏が築いたものではない。三の丸だけでなく、本丸、二の丸、山中御殿や花の壇などの石垣も同様だ。巨石の切石を積み上げた壮大な石垣は、尼子氏の滅亡直後に入った吉川広家、関ケ原合戦後に入った堀尾吉晴により築かれたと考えられる。

たとえば山中御殿の石垣は、典型的な打込接(うちこみはぎ)で隅石は算木積(さんきづみ)。技術的に考えても尼子氏時代のものとは考えがたい。菅谷口の構造も、櫓(やぐら)台を配置して横矢が掛かるなど技巧的だ。これに対して、山頂中心部の外方に展開する曲輪群には石垣は見当たらず、虎口もシンプルだ。おそらく、これが尼子氏時代の城の姿だろう。尼子氏時代の遺構は、山頂北側から北西側の曲輪群のほか、太鼓壇や能楽平周辺の小さな曲輪などと思われる。

山頂部分は南北に長く、三の丸と二の丸の先には大規模な堀切を隔てて本丸に至る。二の丸は二段構成で、南側の虎口は石垣づくりで複雑化されていることなどから、毛利氏または堀尾氏により改変され、主郭とされていたと思われる。近世城郭への大改修は、吉川氏によりある程度行われ、堀尾氏によって完成したようだ。

七曲がり。頂上に見えるのが三の丸の石垣だ

三の丸の石垣。七曲がりを登り切ると袖ケ平(そでがなり)、三の丸、二の丸、本丸へ至る

本丸と二の丸間の堀切。石垣による補強は後の改修

山中御殿の菅谷口。中腹の山中御殿は防御の際の要で、主要な三つの登城ルートはいずれも山中御殿で合流する。改修後の中枢部と考えられ、発掘調査では御殿とみられる大規模な掘立柱建物跡なども確認されている

月山富田城は、近年大規模な整備事業が行われ大きな話題となっている。木々が大胆に伐採されたことで覆われていた城が姿を現し、改めてそのスケールの大きさと改修のようすが注目されている。吉川広家により築かれたと推定される、斜面の石垣は圧巻。これまで存在が確認できなかった馬乗馬場も、ふもとに突き出すように設けられ、城下町をはさんで敵軍と対峙(たいじ)する重要な曲輪であったことが一目瞭然となった。

飯梨川は中海に通じ、尼子氏の勢力拡大に伴い飯梨川の河原には集落が形成され、やがて城下集落となった。吉川氏や堀尾氏も城下町を拡張したが、河川工事により流路が変更され、城下町は現在の飯梨川の底に埋もれている。

整備により山中御殿の一段下に姿を現した巨大な土塁。塩谷口側の強化のためのものと考えられる

飯梨川の対岸から見た月山富田城。城の構造がとてもよくわかるようになった

(つづく。次回は10月22日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト
■月山富田城
JR山陰本線「安来」駅から車で約20分
http://www.yasugi-kankou.com/index.php?view=5228
(安来市観光協会)

       ◇

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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