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西郷隆盛の故郷、鹿児島城と城下町 「西郷どん」ゆかりの城(2)

  • 文・写真 萩原さちこ
  • 2018年11月5日

鹿児島城の本丸に残る石垣

<「西郷どん」ゆかりの城(1)>から続く

西郷隆盛の故郷、鹿児島市。西郷が西南戦争の末に最期を遂げた地でもある。薩摩藩主・島津氏の居城である鹿児島城(鹿児島市)の城下で、西郷は薩摩藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれ育った。JR鹿児島中央駅から徒歩10分ほどの下加治屋町(現在の加治屋町)が、その場所だ。

一般的に、武家屋敷は城の近くに建ち並ぶ。それにもかかわらず西郷家の屋敷が鹿児島城から1.5キロ近くも離れているのは、下級武士だったからだ。薩摩藩は武士が多く、幕末には鹿児島城下の人口5万8000人のうち9割近くを武士階級が占めていたという。薩摩藩の石高は77万石だったが、稲作に適さないシラス台地の土壌も影響し、実際は32万石程度だったという。大河ドラマで描かれていたように、武士とはいえ西郷家の生活も豊かなものではなかった。

加治屋町にある、西郷隆盛生誕の地

下加治屋町は低い身分の武士が暮らしたエリアだが、西郷や大久保利通をはじめ、明治維新前後に活躍した偉人を多く輩出している。その秘密が、大河ドラマにも登場した「郷中(ごじゅう)教育」という薩摩藩独自の教育システムだ。薩摩藩では国防の重点を士民の訓育に置き、武士階級の子供は6〜7歳になると郷中と呼ばれる地域ごとの集団に属し、年長者から武術や学問をはじめ、武士の心構えなどを教え込まれた。

地域により違いはあるものの、郷中教育は武士道の鍛錬教育であることからかなり厳しかったようだ。子供達はただ教えを受けるのではなく、自身で先生を選び、学んだことを発表して共有した。問題提起を行って解決策を議論する「詮議(せんぎ)」も日常的に行われていたという。

城山町にある、西郷隆盛銅像。陸軍大将の礼装をしている

藩主の居所である鹿児島城は、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦後に島津家久により築かれた。城下町づくりに着手したのも家久だ。城は城山山頂の上山城とふもとの居館から構成されたが、1615(慶長20)年に一国一城令が公布されると、居館だけが残された。中枢となるのは方形の本丸と二の丸で、本丸の周囲に水堀がめぐらされたシンプルな構造だ。幕府への配慮からか天守は存在しなかった。

鹿児島県立図書館などがある一帯が二の丸跡、鹿児島県歴史資料センター黎明館が建つ場所が本丸跡だ。本丸北東隅の石垣の隅角部が大きく凹んでいるのは、おそらく鬼門よけ。風水では、中心から見て北東の方角は鬼門、南西の方角は裏鬼門とされ忌み嫌われた。そのため、鬼門にあたるこの石垣の隅角部を凹ませるように積み、鬼門の方角をつくらないようにしたと思われる。

鹿児島城の本丸石垣にある隅欠き。鬼門よけと思われる

城内の建物は失われてしまったが、石垣や堀、御楼門(ごろうもん=大手門)に架かる石橋が現存する。御楼門枡形(ますがた)内の石垣の表面にボコボコと穴があいているのは、西南戦争の際の銃弾の痕。激しい銃撃戦が想像できる。

鹿児島城の石橋と銃痕が残る枡形(2012年撮影)。現在は1873年に火災で焼失した御楼門の復元工事中のため通行できない

鹿児島城本丸北東側の旧厩曲輪(うまやくるわ)、鹿児島医療センターのある場所が、西郷が創設した私学校の跡地だ。石塀には御楼門枡形と同様に、おびただしい数の銃痕が残る。私学校は、1873(明治6)年10月、征韓論に破れて下野し鹿児島に戻った西郷が、桐野利秋ら元薩摩藩士と若者のために設立した軍事教練施設だ。130以上の分校も設けられた。

私学校設立の本来の目的は不平士族の暴発防止と思われるが、結果的には西南戦争の火種となってしまった。九州を中心に士族の反乱が頻発すると、政府の挑発に乗って私学校の生徒が暴動を起こしたのだ。戦いを避けたい西郷の意に反して、事態は悪化。挙兵やむなしと決断した西郷は、西南戦争の大将となったのだった。新しい日本の未来のために、自らの命と引き換えに幕藩体制を終わらせ、明治維新のけじめをつけようとしたのだろう。

私学校跡の石塀に残る弾痕。鹿児島城や私学校の周辺は激戦地となった

西郷軍が最後に立て籠もったのが、鹿児島城背後の城山(上山城)だ。現在、山頂は桜島を一望できる城山展望台として整備され、鹿児島を代表する景勝地になっている。展望台から城山ドン広場にかけてが城域で、曲輪を囲む土塁が残っている。

城山を占拠した西郷軍だったが、官軍は瞬く間に包囲してこれを鎮圧。西郷軍約300余に対し、政府軍は約5万人という兵力差だった。追い詰められた西郷は、1877(明治10)年9月19日から24日未明までの6日間を城山背後の洞窟で起居。城山から突撃した直後に被弾すると、同行していた別府晋介の介錯で自刃した。

城山展望台から見渡す桜島と鹿児島城下

上山城に残る土塁

西郷が最後の6日間を過ごし、指揮をとっていた西郷隆盛洞窟。奥行き4メートル、間口3メートル、入口の高さ2.5メートルとかなり小さい

「西郷隆盛終焉(しゅうえん)の地」には、「南洲翁(なんしゅうおう)終焉之地」と記された碑が建つ。「南洲翁」とは西郷に敬意を表した呼び方だ。西郷を慕う人は多く、明治天皇もその人柄を認めていたという。西郷の遺体は浄光明寺境内に仮埋葬されたが、1879(明治12)年に南洲墓地に改葬された。美しい桜島を望むこの場所に、西南戦争で散った2023人の将士とともに眠っている。

南洲墓地。薩摩出身者だけでなく、西郷を慕って西南戦争に参戦した庄内藩の将士の墓など、749基の墓碑が建てられている

(つづく。次回は11月12日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト
■鹿児島城
鹿児島市電「市役所前」駅から徒歩5分
http://www.kagoshima-kankou.com/guide/12332/
(鹿児島県観光サイト/かごしまの旅)

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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