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長府藩毛利氏の城、海に突き出す串崎城 長府の城と城下町(1)

  • 文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
  • 2019年1月21日

城下町の面影を色濃く残す、古江小路。「城下町長府」の観光スポットのひとつ

さまざまな時代の風が感じられる、長府はそんな町だ。飛鳥時代には長門国府が設けられ、鎌倉時代には長門探題が置かれた地。戦国時代に長門守護となり強大な勢力を誇った大内氏が、毛利氏に攻められ滅亡したのもここ長府での出来事だ。

観光地として知られる城下町が形成されたのは、1600(慶長5)年の関ケ原合戦後、長州藩の支藩として長府藩が成立し、毛利秀元が城を構えてからのことだ。以後は毛利氏の統治下に置かれたが、幕末には下関戦争の舞台となり、長府は倒幕拠点の地として再び歴史に登場することとなった。

功山寺にある、大内氏の第32代当主・大内義長の墓。大内氏は南北朝時代、周防の在庁官人から武士として勢力を広げ、周防・長門2カ国のほか九州北部まで勢力を拡大した。しかし義長のとき毛利氏の侵攻を受け、功山寺の仏殿で自刃し滅亡した

「長府」の地名は長門国府にちなむ。現在の行政区分では山口県下関市にあり、長府は周防灘に面する下関東側の低地にある地域だ。下関の名の由来は、9世紀頃に長門関が下関と呼ばれたことがはじまりらしい。長門関が10世紀頃に機能しなくなると下関の名も消滅するのだが、12世紀以降に下関海峡北岸の赤間関(あかまがせき)が置かれると、その異称として下関が再び登場したという。

長府の繁栄を語るとき、外せないのがこの赤間関だ。1471年に朝鮮王朝が日本や琉球の歴史・地理・風俗・言語・通交などをまとめた『海東諸国記』には赤間関の記述があり、下関地域は大内氏時代から日明貿易の要地だった。毛利氏の時代になると直轄関として代官が置かれ、赤間関は東アジアと日本を結ぶ窓口として大きく発展した。赤間関代官は関門海峡を一望できる火の山城を拠点として政治・軍事を統括したとみられるが、山上にあり政治に不向きだったため、永禄年間末期になると現在の下関市役所付近に鍋城を築いて拠点としたようだ。

壇ノ浦の戦いで没した安徳天皇がまつられていることで知られる、赤間神宮。赤間関にちなみ名がついたといわれる

さて、長府の藩祖となった毛利秀元が拠点として築いた城が、串崎城(櫛崎城、雄山城)だ。家老の三吉家に知行を与えた1602(慶長7)年12月13日付の文書があることなどから、秀元は1602年末頃から本格的な領国支配に着手したとみられる。

串崎城は大内氏家臣で長門守護代の内藤氏が築城した城を修築したとされ、現在の関見台公園から豊功神社一帯がその跡地となる。標高は、北側の頂部で約21.5メートル、南側の本丸で約28メートル。断崖と高石垣に囲まれた、南北540メートル、東西250メートル、面積7万4000平方メートルに及ぶ城だ。実際にのんびりと歩いてみると、とてつもなく広大な城だったことがわかる。

串崎城天守台の石垣。復元整備されている

串崎城の本丸。関見台公園になっている。幕末に奇兵隊が見張り台を置いたことから関見台といわれる

緊張感溢れる、地形と立地がたまらない。関門海峡東口に面し、西は四王司山から霊鷲山に続く山地、南と北は山塊に囲まれた立地だ。かつてこの地域はかなり起伏に富んでいたようで、串崎城は海に突き出した台地上に築かれていた。台地全体を城域として、南・北・東側は断崖絶壁、西側は大きな薬研堀(やげんぼり)で分断。そして、城全体を石垣でがっちりと囲む構造だ。現在でも、本丸の天守台に登ると海を一望でき、海を意識した築城の意図が強く感じられる。

天守台からの眺望

本丸は城域の最南端で、北に一段下がったところに上下2段の二の丸がある。二の丸には三つの虎口(出入り口)があり、南側の三軒屋口、東側の浜ノ坂口は海岸に通じ、北側の松崎口は桝形虎口になっていた。現在「櫛崎城址」の石碑があるあたりが松崎口で、大手門二重櫓(やぐら)が建っていたと考えられている。二の丸南側の東西面には詰ノ丸と西ノ壇が設けられ、松崎口の北側、現在の豊功神社には独立した曲輪(くるわ)があった。

ここまでが城内で、西側には薬研堀をはさんで居館、その北東側には舟手、その西側、現在の豊浦高校グラウンドのあたりには、逆L字状の土塁で囲まれた舟入があった。1600年以降に築かれた城としては珍しい、港湾の確保を優先して築かれた城だったのだろう。

豊功神社のすぐ東側は海岸になっている。周防灘には満珠島と干珠島が浮かぶ。関門海峡を舞台にした源平合戦にも登場する

圧巻は、松崎口周辺の高石垣だ。松崎口から西ノ壇の北側まで、高さ8メートルの高石垣がなんと140メートルも続いている。串崎城の石垣の石材には貝の付着があり、海岸を中心に近隣から集めた石が用いられたと考えられる。

松崎口の石垣。大手門二重櫓が建っていたとみられる

高さ8メートルにも及ぶ高石垣が140メートルにわたり残っている

本丸天守台の石垣や、天守台からの眺望も見事だ。本丸北西隅にあった天守は、南北に長い2間×3間の天守台の南と東に付櫓がついた複合式天守だったと判明している。しかしこれほど立派な城ながら、築城から13年後、1615(慶長20)年の一国一城令後により串崎城は破却されてしまった。その後、藩政の中心は三の丸の居館に移ったが、絵図によれば二の丸に船手組屋敷や煙硝蔵(えんしょうぐら)が置かれるなど、串崎城は土地活用されていたとみられている。

天守台の礎石。付櫓が付属する天守だったことが明らかになっている

(つづく。次回は1月28日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■串崎城(櫛崎城、雄山城)
JR山陽本線・「長府」駅からバス「松原」バス停下車、徒歩約10分
http://www.chofukankou.com/pg22.html(長府観光協会)

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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