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幕末に急造された近世最後の城、勝山御殿 長府の城と城下町(3)

  • 文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
  • 2019年2月4日

勝山御殿。幕末に長府藩によって築造された

<長府の城と城下町(2)から続く>

守護大名大内氏滅亡の地であり、長府藩毛利家の菩提寺(ぼだいじ)のひとつである功山寺。実は、幕末には討幕の発火点となる出来事が起こる歴史的舞台でもある。高杉晋作が幕府に従う俗論派を打倒すべく挙兵したのが、ここ功山寺なのだ。1864(元治元)年12月15日、大雪後の月夜に照らされた功山寺から、晋作は討って出たといわれている。

激動の幕末期、長府の城にも大きな変化があった。欧米列強との攘夷(じょうい)戦に備え、新たに勝山御殿が築かれたのだ。幕府に許可なく城を築けない時代であったため名称は「御殿」だが、その実態は戦いに備えた城だった。

長州藩で攘夷方針が決定されると、関門海峡を望む下関の海岸沿いには前田砲台をはじめとしていくつも砲台が築かれた。当時の長府藩主の居館は旧串崎城三の丸にあったのだが、この場所は海に面しあまりに無防備。そこで安全な内陸に勝山御殿を新築して移転したのだ。1863(文久3)年6月28日に造営が開始され、わずか5カ月後の11月に落成。1864年2月1日には13代藩主・毛利元周が入城している。

維新回天の地として知られる功山寺の境内に建つ、高杉晋作像

勝山御殿の三の丸。本丸を中心に勝山地区公園として整備されている

勝山御殿を訪れると、まずその壮大さに驚く。御殿とは名ばかりで、これは紛れもなく城だ。長府藩邸は1783(天明3)年から「御城」と呼ばれていたものの、構造は防御機能を持たない陣屋構えだった。勝山御殿の場合、表向きは陣屋だが実質的には防御機能を備えた城である。本来、居所の築造や移居は幕府に許可を得る必要があるが、史料をたどる限り、無許可だったようだ。

地理的条件からも、切迫した状況がうかがえる。勝山御殿は扇状地の奥の谷部にあるのだが、西には標高288メートルの青山、北には標高361メートルの勝山、東には標高392メートルの四王司山がそびえ、南を除く3方が高い山に囲まれているのだ。もちろん、砲台による近隣の防衛網も完璧だ。長府城下町に近い好立地でもある。

ちなみに中世には、青山には青山城、勝山には勝山城(且山城)、四王司山には四王司山城が築かれていた。勝山城は、1557(弘治3)年に大内義長が毛利氏に攻められた際、最後にこもった城でもある。勝山御殿は、堅牢な山城に3方を囲まれた城ともいえるだろう。

構造も緊張感にあふれている。谷に沿って南北に本丸奥、本丸表、二の丸、三の丸が階段状に連なる。二の丸や三の丸は台場のつくりに近く、いかにも砲撃戦に備えた設計だ。いわゆる江戸時代の軍学に基づき、効率よく敵に対して横矢を掛けられる。一方で、本丸には砲撃目標となる櫓(やぐら)はなく、西洋的な発想の城ともいえそうだ。砲撃を吸収する防御壁とするためだろうか、石垣には土塁が組み合わせられている。

本丸から望む青山(左)と勝山(右)。登山コースがあり、青山城から勝山城へと縦走できる

とにかく目につくのは、なんとも珍しく芸術的な積み方の石垣だ。広島県山県郡で発展した伝統技法である「山県(やまがた)積み」が採用されているという。特徴は、巨石をふんだんに使い、石材の長軸を斜めに置き、その上の石材は並びが逆になるように長軸を斜めに置くことだ。天端には大きな石を据え、隅角部には縦石を使う傾向もあるようだ。たとえば本丸表南面の正面東側の石垣にも、その特徴が見られる。

本丸表南面西側の石垣も、山県積みが用いられた味のある石垣だ。ただし東面の南西隅角部がファスナーのように石をかませた鈍角なしのぎ積みになっているのに対して、この石垣の隅角部は長辺と短辺を交互に積み上げる算木積みになっている。石の合わせ目はノミを使わず「玄翁(げんのう)はつり」という工法で仕上げるのも、山県積みの特徴なのだそうだ。

本丸表南面東側の石垣。山県積みで、上部は巨石が使われている

本丸表南面西側の石垣。山県積みだが、隅角部は算木積みになっている

本丸表南面東側の隅角部。縦長の石や横長の石が積まれ、しのぎ積みになっている。ノミを使わない「玄翁はつり」も見られる

おもしろいのは、本丸の正面周辺の石垣では時間のかかりそうな山県積みが用いられているのに対して、本丸の西側や三の丸の西側の石垣は小さな石材を使った落とし積みの石垣になっていることだ。人目につく場所とそうでない場所とで差別化した、ということなのだろうか。急造されたとはいえ、藩主の城たるこだわりが感じられる。

三の丸の石垣。本丸とは積み方が異なる

明治に入ると、14代藩主・毛利元敏は長府藩を豊浦藩と改め、勝山御殿は藩庁となり、廃藩置県後は豊浦県庁となったが、山口県に統合されたことでその役目を終えた。勝山御殿には、幕末の築城理念や技術が詰まっているのはもちろんのこと、歩いているだけで当時の下関の軍事状況を肌で感じることができるすばらしい遺跡だ。その価値が認められ、2018(平成30)年11月には国の史跡に指定するよう、文化審議会が答申している。

勝山御殿の玄関は、覚苑寺庫裏(くり)に移築されている

(この項おわり。次回は2月18日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■串崎城(櫛崎城、雄山城)
JR山陽本線・「長府」駅からバス「松原」バス停下車、徒歩約10分
http://www.chofukankou.com/pg22.html(長府観光協会)

■勝山御殿
JR「新下関」駅からバス「田倉」バス停下車、徒歩15分
https://shimonoseki.travel/spot/detail.php?uid=260(下関市公式観光サイト)

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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