東京の台所

<1>深夜の鍋の前は、くつろぎの指定席

〈住人プロフィール〉
喫茶店店主。45歳。
賃貸マンション・2DK(世田谷区北沢)
入居14年
2人暮らし

    ◇

一度、取材した家をまた別のテーマで再訪したいと思うことがある。この家がそうだ。人物撮影をしていて、台所のたたずまいに心を奪われた。なんて雄弁な空間だろうか! 台所というテーマがあったら絶対にこの家を真っ先に訪ねたい、と脳裏に刻んだ。果たして、時機は到来した。

流しは、一人暮らし用ぐらいの大きさで、調理スペースも狭い。だが、ここで作れないものはないと思わせる強い何かがある。それはきっと、道具の力だ。かご、ざる、網、棕櫚(しゅろ)の鍋敷き、鉄の鍋。

住人は、とにかく台所道具が好きなのだと言う。頼むと、さらに次々出てきた。東北で買った羽釜、京都から取り寄せたまな板、すりばち、おひつ、せいろ、包丁。

「料理が好きなんじゃなくて、これを使いたくて、料理をしているのかもしれないですね」と笑う。使いこむほど手になじむ日本の道具たちが、けして広くないけれど、どれもが最も使いやすい、乾かしやすいベストな場所に配置されている。

住人は、ひとりで喫茶店を切り盛りしている。1日中ほぼ立ちっぱなしで、夜10時近く、やっと帰途につく。雑居ビルの3階の小さな部屋だが、駅から近いことと、台所の窓から、隣のビルの壁に絡まる蔦の葉が見えるところが気に入っている。

「不思議と、どんなに疲れていても、家に帰ったら料理をしたくなるんです。そのときは絶対煮込み料理」

でも、店で軽いものをお腹に入れているから、作るだけで食べないという。遅く帰ってきた同居の彼が煮込みをつまみ、彼女はワインを飲みながら、コンロの前に座ってグツグツいう鍋をずっとのぞき込んでいる。

「できあがる頃には0時近くになっているのだけれど、その時間がいちばん好き。ほっと落ち着きます」

それでも、「ジャーッと強い炎で短時間に炒めたり焼いたりする料理は苦手」なのだとか。すぐ食べないとおいしくなくなってしまうからだ。

ところで、この家にはダイニングルームらしきものはない。台所に置かれたテーブルが作業台にも食卓にもなる。彼は食卓。彼女はコンロ前。家にいるときはほとんどここにいるというから、鍋の前はくつろぎの指定席でもある。そしてその時間こそが、彼女の1日の終わりに打つ小さなピリオド。深夜の指定席で、お腹でなく、心がひたひたとおいしい匂いで満たされながら一日がお開きになる。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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<2>あるけどない、ないけどある家

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