東京の台所

<5>東京・下町に構える、独身男の根城

〈住人プロフィール〉
 フリーライター。45歳。
 分譲マンション・1LDK・東京メトロ日比谷線 入谷駅(台東区)
 入居9年
 ひとり暮らし

    ◇

 西麻布、歌舞伎町、新宿3丁目と、夜の匂いのする場所に住んできた。いかにもかたぎでない風貌の男と水商売風の女の痴話喧嘩が隣から聞こえてきたこともある。夜になると、日本語以外の言葉があたりを飛びかう。そろそろ次へと引っ越しを考えている頃、親戚からマンションを紹介され、買うことになった。駅近なので資産価値もある。結婚したら誰かに貸せばいい。そんな軽い気持ちで俺、買っちゃったんです、と住人は当時を振り返る。

 L字型のキッチンで、流しの前にはベランダに向いた大きな窓がある。本人は「狭い!」と嘆くが、小さいながらも使い勝手が良さそうだ。特別な道具や設備があるわけではないのに、この心地よさはなんだろうと考えると、明るくやわらかな光にたどりついた。たぶん、この家で台所がいちばん明るい場所にある。

 気に入っているところを尋ねると、「明るいところ!」と答えが返ってきた。ほら、やっぱり。

 週7日酒を切らしたことがない勝手気まま、自由な生活。酒は外でワイワイ飲むことが多いが、この家に来て、自分の胃袋は自分で満足させるという新たな習慣ができた。平たく言うと料理に目覚めたのである。ぎょうざや揚げ物はお手の物。毎日の料理に汁物、サラダか漬け物は必ずつける。そして、花火や入谷朝顔祭りの頃はよく宴会を開く。この日も、前夜になじみの店の“おねえちゃんたち”と宴会をやったばかりとのこと。

「台所がちょっとだけ片付いているのはそのせいです。鍋の翌日は、だしを使ってラーメンや雑炊など、アレンジを考えるのが楽しいですね」

 最近の得意料理は豚フィレのガーリック揚げだ。

「やめてください。そんなふうに書かれると男の独身生活丸出しで、なんか俺、せつなくなってきた……」

 本人はそうかもしれないが、好きなときに寝て好きなときに起きて、友だちを呼んで酒盛りをする。そのどれもが、たとえば家族持ちの私がもう2度と手に入れられない時間である。いつかはできるとしても、それは子どもが巣立ったあと、きっとずっと先だ。

「そんなもんでしょうか」と、彼は自嘲気味に笑う。

 フリーライターだから昼間も家にいる。震災当日、恐怖に震えながら母親とマンションの外に出た幼児たちに「大丈夫だよ」と声をかけ、手をつないでエレベーターを一緒に上がった。その小さな手のひらが忘れられないと言う。

「平日の昼間はお父さんたちも会社だから。ママさんたちも、みんな不安顔で。俺みたいに図体のでかい男でも、いないよりはましだったんでしょう」

 翌日からその子たちと友だちになった。

「壁は煙草のヤニで真っ黒だし、そろそろ入谷の生活も飽きてきたんですよね」と言うが、しばらく越さないのではと私はふんでいる。なぜって、柔らかな光が舞い込む窓付きのキッチンはそうそう見つからないだろうし、このマンションには小さな手のひらを包む大きなおじさんの手がこれからも必要な気がするからだ。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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