東京の台所

<9>消える阿佐ケ谷住宅 夢のあとさき

〈住人プロフィール〉
 主婦・自営業、39歳。
 公団(賃貸)・3DK(メゾネット)
 東京メトロ丸の内線 南阿佐ヶ谷駅(杉並区)
 入居7年
 築年数55年
 夫(中華料理店主)、長男(7歳)、長女(2歳)の4人暮らし

    ◇

 お粗末な写真の腕を許して欲しい。2011年、阿佐ケ谷住宅にまだ最後の住人が何世帯かいたころ、取材したものである。買ったばかりの一眼レフの露出もしぼりもなんだかよくわからないまま、とにかく記録に残しておかねばという思いばかりが先走り、シャッターを押した。

 3~4階建て鉄筋コンクリート造、平らな陸屋根の標準的な公団タイプが118戸。庭付きメゾネット、赤い傾斜屋根のテラスハウスタイプが232戸。後者の設計は、モダニズム建築の父と言われた前川國男と、緑と公団の融合をはかりながら高蔵寺ニュータウンなど多くの公団を設計した都市計画家の津端修一が手がけている。どちらも、帝国ホテルで知られる建築家フランク・ロイド・ライトの流れをくむ建築家アントニン・レーモンドの元で学んだ経験がある。

 取材した住人はテラスハウスに住んでいた。これはなんとしてでも見ておかねばならないと思った。なぜなら、公団分譲団地の先駆けと言われる阿佐ケ谷住宅は、野村不動産によって解体され、6階建て17棟によるマンションに立て変わることが決定していたからだ。

 それから幾度か訪れたが、いつ行っても四季折々の花や草木が多彩な表情を見せ、柿、レモン、柚、橙、さまざまな果実が実っていた。50年余の間に、住民が思い思いの木や花を植えてきたのだという。都会の真ん中だというのに、ぽっかりと空が抜け、こんもりとした森の中に赤い屋根のテラス棟が点在する様は、日本というよりアメリカ映画の一場面のように思えた。

 ドアノブは真鍮(しんちゅう)。玄関とトイレの間に曇りガラスがはめられ、明かり採りの役目を果たす。狭いながらもメゾネットで、リビングと寝室をきっちり分けられる。リビングの向こうには芝生の庭。平たい言葉になってしまうが、古いのになんてすみずみまでおしゃれで工夫がいっぱいの家なんだろうと魅了された。

 住人はよくここでバーベーキューをして楽しんだとのこと。

「庭の前も広々していて、七輪も特別な時でなく、日常的に普通の調理器具としてバンバン使っていました。秋刀魚やつくねを焼いたり。炭で焼いたつくねは美味しかったですね。古くて家もきしんでいたりするんですけれど、幼い子がいる我が家には最高の家。朝から森の中にいるみたいに鳥の声がきこえ、緑と空に包まれ、たくさん風が抜けて気持ちがいいです」

 しかし、一家は去年、ギリギリまで粘っていた立ち退きを受け入れ、転居した。

 そして先週、彼女からメールがきた。

「ロープが細かい道にも張り巡らされ、3月8日以降は公道以外は進入禁止になるという張り紙が張られました。阿佐ケ谷住宅の木々が切られるということをまだ、よく、頭と心が現状を把握できていません。最後まで再開発に反対する方が裁判をしていましたが、年末くらいに凍結という形になりました。とても残念です。再開発の真偽よりも、“再開発をしたい人が多い”という民意が勝った結論となったようです」

 彼女は、やみくもに、ただ昔の古くてかっこいい建物を残そうと望んだのではない。日本の公団の歴史の中でも稀な、“集合住宅の中で市民がゆったりとした緑を共有しながら肩を寄せ合って暮らす形”が築いてきた小さな森をなんとか守りたかったのだ。

 ひとり、またひとりと住人が去っていく中、最後まで阿佐ヶ谷住宅の台所でご飯を作り続けたが、望みはかなわなかった。

 それでも、もう後ろは振り返らないという気持ちが行間から伝わってきた。自分たちが暮らした阿佐ケ谷住宅の記憶をしっかりと自分にしみこませ、前を歩いて行く、とつづられていたからだ。あの台所でクッキーを焼き、スープを作り、子どもたちと庭で食べた記憶をまるごと次の人生に持っていくのだ、きっと。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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<8>母と娘 かりそめの町、かりそめの台所

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<10>ものは持たず、まるで旅の途中のように

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